2022/07/14

●『カルテット』、二話、三話をU-NEXTで。『シン・エヴァンゲリオン』を観た時には、この映画が大好きな人が大勢いる国なら、それは自民党が大勝するだろうし、自分なんかの居場所はないのだなあと暗い気持ちになったが、坂元裕二の書くドラマが好きな人が一定数以上いるのだとしたら、日本にも自分の居る場所はまだあるのかもしれないと、少し明るい気持ちになる。

●多義性が保たれたままの「上っ面」の関係のなかから、役割の下にある「地」が露呈されるという展開は一話のみで、案外あっさりと登場人物たちの背景が明らかになっていく。二話では松田龍平の、三話では満島ひかりの背景が明らかになる。おそらく、四話で高橋一生の背景が明らかになって、その後にまた別の展開となっていくのだろう。

●伏線という言い方が適当かは分からないが、後の展開を知ることによって、それよりも前に置かれた場面の意味が読み替えられたり、味わいが深まったりする。たとえば、二話の冒頭ちかく、もたいまさこ満島ひかりに向かって「手品師がどうやって人を騙すか知っているか」と問いかける。この場面を観ているときには、これは一般的な比喩として言っているのだと思う。しかし、三話を観たあとに思い返すと、もたいは満島の過去を知っていて、あえて手品師という(比喩にとどまらない)比喩を出して満島を恫喝していたのだと分かる。

二話の段階である程度は察せられたが、三話をみてはっきりと満島ひかり松田龍平に惹かれていることを知ると、二話の、松田と満島が深夜に二人でコンビニへ買い物にいく場面(満島はこの会話を録音している)で、「自分は高橋一生が好きだ」と嘘を言ってまで、松田から「松たか子が好きだ」という言質を取ろうとする場面に込められた、複雑すぎるニュアンスを反芻することになる(松田の告白を引き出すのは、おそらくもたいからの指示だと思われるが、それは満島にとって冷静には行うことのできない行為であり、その事実を「知ってしまう」ことが、満島の感情に大きな影響を与えることになるだろう)。

また、松、松田、満島によって構成される三角関係において、松たか子という人物の信じがたい(敏感さとうらはらの)鈍感さが表現される。松は、松田が松に告白して断られた場面を満島が聞いていたことを知りながら(つまり、松田が松に好意を持っていることを満島が知っていることを知りながら)、満島に、「自分は、誰が誰を好きなのか直感的に分かる、あなたは松田のことが好きでしょう」と平気で言う。図星である(敏感さ)がゆえに、お前がそれを私に言うのか、と満島は思うだろう。松は、「(他ならぬ)自分」がそれを言うことの残酷さをまったく意識していない(鈍感さ)。

松の、鈍感さと敏感さとがアンバランスに配合された癖の強いキャラクターは、同じ場面の別の会話でもあらわれる。ここで松は、満島から時々線香の匂いがすることを指摘し、頻繁に墓参りに行っているのではないかと推測する。満島から線香の匂いがするのは、もたいと頻繁に会っているからで、松の推測は的外れなのだが、三話を観ると、満島がたびたび(ロッカーにしまわれた)母親の骨壺のお参りをしていることは事実であることが分かり、松の(間違った推論に基づく)直感がここでも当たってしまっていることが分かる。

●三話で、満島の父の死の連絡を受けた松が病院へ向かい、図らずも(嫌がっていた満島の代理のようにして)満島の父の死を看取ることになってしまう。この後、病院を出た松は、病院の出入口の先で佇んでいる満島を発見する。満島は、ここまで来ても病院のなかには入れずにいた。そして、二人はとりあえず蕎麦屋に入る。この場面がとても印象的だった。

稲川淳二の怪談の使用や、二人の座る位置関係やそれを捉えるフレームとモンタージュもすばらしいが、なんといっても色彩の効果が特徴的だ。蕎麦屋の壁はモスグリーンで、松もまた、同系統のグリーンの服を着ている。ここで満島は場違いのように真っ赤な服装だ。しかし、グリーンの支配する空間で居心地の悪そうな満島が、壁に、赤と白のボーダーのビキニを着ている女性のポスターを発見して、そのわずかばかりの赤に頼るようにポスターに近づいていく。

満島は、ポスターの近くで、ポスターと向き合ったまま(カメラに背を向けたまま)、ポスターの赤に励まされるようにして(フレームのなかで満島とポスターは重なり合っている)、ようやく父について語り始めることができる。

ここで重要なのが、松が、父の看取りを拒否する満島をきっぱりと肯定するということだろう。日本のドラマでは家族主義が強く、なんだかんだいろいろあったけど父の最後は看取ることが出来た、ということを「いい話」としがちだし(父を受け入れられることを娘の「成長」としがちだし)、少なくとも、葬儀に参加しないとしても、遠くから葬儀を見守る、くらいの落としどころにしがちだと思う。しかしここでは、娘と会いたがっている父を拒否し、葬儀にすら参加せずさっさと軽井沢に帰る。父がどんなに望もうが、娘は父に会いたくない。(あえて死語を使うが)「お茶の間」に流れることが前提のテレビドラマとしては、とても攻めていると思った。

(端々から、「保守的であること」への忌避が強く匂い立つ。)

●ベタだが、二話のラストちかくで松田龍平の演奏する「アヴェ・マリア」が「white love」へと変化し、それを聴いた花嫁が一瞬立ち止まる、という演出には泣けた。