2021-06-10

●いわゆる「名セリフ」が好きではない。だが『大豆田とわ子と三人の元夫』には、きら星のように至る所に名セリフが散りばめられている。もし、これらの名セリフを文字で読んだら(たとえば小説などに書かれていたら)、シラケてしまってそのままそっと本を閉じると思う。しかしこのドラマでは、この構成、この演出、この俳優、この演技、このタイミング、このニュアンス、で、的確に口にされることで、名セリフが「言葉」として浮くことなく、フィクションのなかで、他の諸要素と必然的な位置関係をもつことでリアリティを得ていると思う。

(そして、今までのところで最も好きな名セリフは、岡田将生による「これ、死んだお魚のお寿司」だ。)

「手に入ったものに自分を合わせるより、手に入らないものを眺めている方が楽しいんじゃない」と松田龍平松たか子に言うセリフがある。そしてこの言葉に松たか子はすぐに同意する。これはAよりもBの方が楽しい(よってBを選択したあなたの選択は正しい)ということを言っているのだが、Aの「手に入ったものに自分を合わせる」もBの「手に入らないものを眺めている」も、どちらも自分の欲しいものは手には入っていない状態なので(欲しいものが手に入ったのならば、無理して自分をそれ合わせる必要はなく、自分とそれは予め「合って」いるはず)、この発言はそもそも、欲しいものは手に入らないことが前提になっている。つまり、「手に入るものは(常に)欲しいものではない」という捻れた事実を表現していて、たんに松たか子が「欲しいものを諦めた(欲しいものを手に入れなかった)」ということを肯定しているのではない。ちょっとしたセリフのなかにも、このようなアイロニカルなひねりが含まれている。とても手の込んだつくりだと思う。

とはいえ、これは「名セリフ」でしかなく、せいぜい常識をひとひねりか、ふたひねりしているくらいのことだ。ドラマ全体の構築により、ここで言われている以上のことが踏み込んで表現されている。松たか子オダギリジョーを諦める理由は、「気の利いたセリフへの同意」で表現し切れるものではないし、その複雑な内実(組成)はドラマ全体によってしか表現されない。

(たとえば、オダギリジョーを部屋へ招き入れる前に、松たか子は、娘と通話し、母の遺影と対面する。オダギリジョーのプロポーズを受け入れるか否かの判断にかんして、三代にわたる女性の生のあり方が反映されていることがここで表現される。)

名セリフもまた作品を構成する多様な要素の一つであって、「そこだけを切り取って」解釈しようとすると罠にハマってしまうのだが、名セリフというあり方そのものに、「そこだけを切り取らせようとする力」が働く傾向がある。名セリフは、キャッチーで人を引きつけるものだが、同時に、人の理解への探求を安易な着地先へと導いてしまいもする危険なものだろう。だけど、その危険を承知で、あえて名セリフという媚薬(であり、毒でもあるようなもの)を多用しているところに、この作品の意地の悪い(危険な)魅力があるとも言える。

ただ、「意味」のある名セリフよりも、たとえば、「人のことは言うよね」「人のことは言うよ」「そういう意味で言ったんじゃないよ」「そういう意味で言っていいよ」というような、たんなる反復に過ぎないように見える応酬のなかに、松たか子市川実日子の二人の関係が的確に表現され、そこに驚くほどに深い感情や思慮が含まれているようなセリフこそが、より一層すごいと思う。

(追記。最終回はまだだが、いままでのところで、ぼくがこの作品で最もすごいと感じた場面は、市川実日子が浜田信也との会食をばっくれたことを知った松たか子が、喫茶店でパフェを食べている市川実日子に問い詰めるように話しかける、上記のやりとりがなされる、二人の対話の場面だ。この場面があるからこそ、二人の関係の深さが理解出来るのだし、松たか子オダギリジョーを捨ててまで市川実日子と共にあろうとするという展開に説得力があるのだと思う。)

●作品第一主義者なので、基本的に製作者側のインタビューなどは読まないのだが(作者こそが「正解」を知っているという考え方は間違っていると思うし---作者自身すら充分に理解していない深い奥まで届こうとするのが作品だと思う---、それに、公式インタビューは半分以上はプロモーション要素でできているので見せたいものしか見せない、見せたいものを見せようと誘導してくる傾向がある)、下にリンクしたインタビューをつい読んでしまったらネタバレをくらった。豊嶋花の「勉強やめた」問題について。いや、ネタバレというほどのこともないのだけど、「最終回で決着する」と言い切られてしまうと、一体どうなるのだろうかと様々に思い巡らす想像(妄想)の幅が狭められてしまうので、出来れば言わないで欲しかった(この問題を決着させるか、させないか、ということで、ドラマのあり方や姿勢が大きく分岐すると思われるので、「決着する」というメタ情報は、どのように決着するのかという具体的内容の情報と同等かそれ以上の、展開を決定づける強い情報になってしまう)。

《あれは、医大入試にまつわる女性差別問題に直面した、唄ちゃんなりの決断なんだろうなって想像できますよね。“お金の匂いのする苗字”(注:作中での表現)の西園寺くんとの関係については、最終回で決着するので楽しみにしていてください。》

【大豆田とわ子は、人生を謳歌する新しい働く女性像】プロデューサー・佐野亜裕美さんインタビュー(Domani)、より

https://domani.shogakukan.co.jp/532020

あと、《とわ子さんを、“おしゃれな人”というより、“洋服が好きな人”にしたかったんです》というのはなるほどと思った。松たか子(大豆田とわ子)は、必ずしもおしゃれではないけど、着たいものを着ている感はすごくでている。別にダサくてもかまわない、「おしゃれ」という第三者からくる価値観にととらわれていない感じ。

(おしゃれな人は、《「おしゃれじゃない」ように見える状態になってはいけない》という抑圧にとらわれている感じがする。何が「おしゃれじゃない」のかという判断は自分では決定できず、第三者に依存するので、おしゃれであろうとする人は常に他者の顔色---それは具体的な誰かの顔色ではなく、トレンドとか、時代の空気とか、TPOとか、慣習とか、そのような象徴的な他者の顔色---をうかがっていなければならなくなる。逆に言えば、自分ではストライクゾーンを決定できないからこそ、アリかナシかのギリギリのゾーンを攻めるスリルを味わうことができるのかもしれない。おしゃれとは他者---象徴的な他者---との危険を伴う駆け引きなのだろう。たとえば、「あえて外す」というのは象徴的な他者への「否」という態度表明だ。だがそれは、象徴的な他者を「気にしている」からこそ可能な行為だ。)