2021-05-25

●『大豆田とわ子と三人の元夫』、第七話。空野みじん子、「佳作」はリアルだが地味に辛い…。というか、地味に辛いがリアルだ。そして、インターフォンの音でいちいち気分が下がるという、この細部の表現のすごさ。

そうか。市川実日子の死の衝撃を松たか子以上に強烈にくらっているのは松田龍平なのか。一年後もまったく立ち直れていない感じ。それをさらっと不在(「また」旅行中)で暗示するという表現の洗練。そして、松田龍平の不調(立ち直れなさの理由)を理解出来るのは、松田と市川の関係を知っている松たか子だけだ、というのにもなんとも言えない苦さがある(岡田将生はなんとなく察しているようだが)。松田龍平松たか子は、共に市川実日子を失い、豊嶋花を失っており(豊嶋は死んではいないが)、二人の食事シーンは喪失を共有している者たちの晩餐だ。

(松田と松は互いに「ごめんね」と言い合う。この「ごめんね」の意味…。)

そして今回、岡田将生は(立ち去った三人の女性がのり移ったかのように)松たか子に対してぐいぐい押してくる。前回、大勢が押しかけるオープンな場だった松たか子の部屋は、今回は一転して(前回不在だった)松たか子がたった一人で居る場所になる。そこへ最初に訪れるのが岡田将生だ。岡田が「君は建築家として一流だから社長なんか辞めればいい」と言うと松は「やれるところまでやると約束したから」と返し、「誰に」と問われて沈黙する。ここにも市川実日子の不在が利いている。

さらに高橋メアリージュン。制作部と経理部の対立は、この一年間で改善されることなく、さらに根深く深刻になっていたのか。つまり、一年前の衝撃は各方面で未だまったく癒えていないということか。

オダギリジョーは、人が「こうしてほしい」と思う行動を察して完璧にこなし、人が「こう言ってほしい」と思う言葉を察して完璧に口にすることができる(この意味では松田龍平の強化バージョンとも言えるし、谷中敦の反転バージョンとも言える)。オダギリジョーは「自分の考え」を述べているというより「松たか子が必要としている考え」を述べているという感じではないか。そのようなことができる優秀な頭脳を持っているからこそ、仕事は仕事として割り切って、その必要性に最適化した行動を躊躇無くとれるのだろう。頭が良すぎるが故にほとんどサイコパスにしかみえない。予告を観た時には、ここでオダギリジョーをもってくると豪華キャストのインフレ状態になってしまうのではないかと危惧したが、実際に観てみたら、確かにこのような強烈な役はオダギリジョーにしか出来ない(オダギリジョーでないと説得力が無い)と納得した。

オダギリジョーによるこのような「公私の区別」は、松たか子が会社からのアクセスを一切絶って死んだ市川実日子と共にあったという時の「公私の区別」とは明らかに異なっている。むしろオダギリには公私の区別は無く、どちらの場合においても徹底して合理的に行動する、ということだろうか。また、松たか子は、公私のどちらの場面においても「合理的である」ということには最大の価値を置いていない(合理性に対する倫理性の優位)、と言うこともできる。オダギリはそれによってサイコパス的なバッキリした乖離を、松はそれによって煮え切らないぐたぐだ感を、それぞれ生じさせる。オダギリは、公私ともに「よい結果」をゲットする(ように思われる)が、その公私の間に調整不可能な矛盾を生じさせる。松の場合は、公私に矛盾は出ないが、どちらもイマイチな結果を生んでしまう。

(斎藤工にしろ、谷中敦にしろ、オダギリジョーにしろ、松たか子の前に「恋愛を意識させる雰囲気」を持って現われる男性は皆、彼女に大きなダメージを与える。それに比べると三人の元夫はまるで姫に仕える七人の小人みたいに見えてくる。今のところ徹底したアンチ恋愛ドラマのようにしか見えないのだが、最終的にどのように着地するのだろうか。)

とはいえ、「オダギリジョーの言っていることの説得力」それ自体と「オダギリと松の関係の敵対性 」とを切り離して考えるならは、松たか子は確実に「オダギリジョーの言っていること」に救われたと言える。つまり、人ではなく(言っている人が誰であろうと)「言っていること(考え方)」に救われた。それが今までの男たちとオダギリが異なる点だろう。

(オダギリジョーの言っていること---過去は過ぎていくのではなく別の場所に存在し続ける---は現代物理学的な素養から導かれる話でもあるから、オダギリが数学好きという設定は、たんに松たか子と出会わせるため以上の意味がある。それに、投資ファンドに高度に数学が出来る人がいるというのも当然のことだから伏線にもなっている。ただ、「法務部」で数学とはあまり関係ない部署だけど。)

とにかく、オダギリジョーによって、松たか子は---画面上では---ここに至って始めて「泣く」ことが出来た。そして、泣いていることを「零れてます」と指摘するオダギリジョー(クロワッサンやシナモンロールを「零さない」で食べることはできない、だから、零してよいのだ。)。

(追記。オダギリジョーの言っている時間の話は、ブロック宇宙論的とも四次元主義的とも言えるけど、普通にテッド・チャンの「あなたの人生の物語」に近いニュアンスだ。)

●無事に進学はしたようだが、豊嶋花の「勉強やめた」問題はどうなっているのだろうか。この点はとても気になる。

しろくまハウジングの置かれている状況は、コスト削減ですっかり貧しい感じになっているテレビ業界にも通じるものがあるのだろうかと、ちらっと思った。テレビ局という大きな単位ではなく、ドラマ製作チームがちょうど、しろくまハウジングくらいの規模なのではないか。だとすれば、松たか子はプロデューサーの似姿でもあるかも。