2021-05-26

●『今ここにある危機とぼくの好感度について』、第四話。わざわざ文句みたいなものを書くのも嫌なのだけど、四話まで観つづけたのでメモ程度に書いておく。

分かりやすくすることと紋切り型にすることとは違うと思う。このドラマではあらゆることを紋切り型に平板化してしまう。例えば、一方に時流に乗り遅れてのけ者にされているクセの強い怪しい研究者がいて、もう一方に注目を集めている最先端のエリート研究者がいる。一見、前者がヤバそうにみえるけど、実はエリートの方に問題があったのだ、と。子供向けの物語だったらこのくらい分かりやすい図式化も必要かもしれないけど、大人が観るドラマでこんな単純な構図ある? と思ってしまった。

(また、エリート研究者の「エリートっぽさ」がすごく紋切り型だ。)

(論文不正の辰巳琢郎もそうだったし理事たちもそうけど、このドラマでは権力者やエリートの像がみな紋切り型で、「権力者に対する想像力」が欠けているように感じられる。)

ドラマでは、テレビのレポーターが問題を恣意的に切り取って分かりやすいところだけ見せていることについて批判的に描いているけど、このドラマ自身が、ほとんど同じ罪を犯してしまっているように思う

勿論、ドラマのこの回のキモはそこにあるのではなく、大学の理事の意向---しかも自己保身的でその場しのぎの---によって病院の検査の結果までもがねじ曲げられてしまうという怖い状況(そして、今、日本がそのような怖い状況にあること)を批判的に提示し、危機感をもたらそうとすることにあるだろう。この点について(そのような主張について)はぼくも同意見だ。でも、そのようなことをドラマによって告発することに、どの程度の意味があるのだろうかと思ってしまう。このドラマの「主張」に拍手喝采を送るのは、はじめからドラマ製作者たちと近い思想や現状認識をもっている人なのではないか。

たとえば『大豆田とわ子と三人の元夫』で石橋静河が演じていたような人物と実際に会ったとしたら、ぼくはそのような人物の言動を理解出来ず、受け入れられず、遠ざけてしまったかもしれない。しかし、このドラマのなかで構築されている諸人物の関係、諸エピソードの連関のなかに置かれたこの人物をみることで、そのあり方に対する納得のようなものが得られ(「他者の合理性」に触れ)、なるほどこういう人なのかと思い、他人に対する見方が少し変化する。優れたフィクションは、そのようにして人の考え方や感じ方を動かす力をもつものだと思う。

そのような説得力をフィクションがもつためには、その方が分かりやすいとしても、紋切り型を積み上げて世界をつくるようなことをしては駄目なのだとぼくは思う。

(複雑な現実を「複雑なもの」として受け入れるには、まず、複雑なフィクションを受け入れられる能力が必要だと思う。勧善懲悪のフィクションしか受け入れられないと、現実もまた、勧善懲悪的にしか把握できなくなる。)

●この回、このドラマは、松坂桃李に「死の恐怖」を与えることで半ば強引に傍観者の位置を剥奪して、当事者化させた。また、理事の一人(岩松了)と「死の恐怖を共有する」ことで強い繋がりが生じ、自分はあくまで権力者である理事に従っているだけの立場で、向こう側(理事たち)とこちら側とは違うという線引きも撤廃させた(理事だけが知り得る「秘密」を知ってしまう)。つまり松坂桃李は既に「悪の凡庸さ」の位置にはいない。しかし、だからといって松坂桃李に特にこれといった力があるわけではない。このような状況で、松坂桃李はどのように動き得るのか。そこにはまだ興味がある。