2021-05-01

●『今ここにある危機とぼくの好感度について』、第二話を観た。

確かに、このドラマの制作者たちとぼくとでは、「現実に対する苛立ち」を共有してはいると思う。だが、フィクションをただ「苛立ちの共有の確認」としてだけ用いるというのは、フィクションに対する態度として支持できない。

このドラマの面白くなさは、弛緩し、単純化された「現実」がただ平板に反映されているだけで、そこにひねりも批評もないというところにある。だから、ただ気分が悪くなるだけで、笑えない。わざわざドラマを観なくても、新聞やネット記事に似たような話が出てくる。そういう話がそのまま(というか、過度に単純化、一般化されて)出てくるだけなので、このドラマとして独自の「面白がる」要素がほとんどない。いや、「現実」がそのまま反映されているのならまだ良いかもしれないが、過度に単純化され、図式化されているので、偏見を助長する紋切り型になってしまっているとさえ思われる。ここには、正義が負けて悪代官が勝つ、逆転された「水戸黄門」(単純な「勧善懲悪」の裏返し)があるだけなので、負けた側の苦さや悔しさもそれほど伝わってこないし(かろうじて、鈴木杏の演技によって表現されているが)、権力の側がなぜそんなに強いのかという理由も分からない。

(現実に対する批評、あるいは、現状の構造に対して何かしらのひねりが加えられること、によって、はじめてコメディとなり得ると思うのだが、ここにあるのはただの現実の紋切り型化された反映なので、面白くないのだと思う。)

(前回が「水戸黄門」で、今回が反転された「水戸黄門」というのでは、この作品によって生まれる新たな批評的視点や構造がないということだと思う。)

大学側の権力の描き方も、それに対するプロテスト側の描き方も、工夫がなく紋切り型にみえる(特にプロテスト側のイメージが古すぎる上に、抵抗の策が弱すぎる)。今回、どちらの立場とも言えない存在として波乱を起こす役割りにある「変人教授」のキャラにしても、「駄目な昭和のおじさん」の紋切り型でしかなく、工夫が感じられない。不正を隠蔽しようとする権力者たちがあり、それを暴こうとするプロテスト側がいて、そのどちらともいえない第三項である「昭和の駄目おじさん」が暴れたことが、結果として権力者側の利益となった。このようなドラマの構造は簡単過ぎないだろうか。

(国広富之は、善人だけど気が弱そうで、強い押しには屈してしまいそうなキャラに、はじめから見えてしまうので、実際にそうなっても、ああ、やっぱりということにしかならない。プロテスト側の人物たちが特に、皆、ひねりもないし厚みも無いように見えてしまう。)

(不正疑惑が湧き上がっている時に、当事者の辰巳琢郎が何をしているのか、どういう態度なのかがまったく分からない、というのはどうなのか。本当に一番悪い奴のことが描かれない。)

(このドラマで構造的に面白いと思える点があるとすれば、松坂桃李鈴木杏が、立場的にはほぼ同じ境遇なのにもかかわらず、立ち位置的には真逆にあるというところだ。だからこそこの二人は、あと一歩で互いに心が通じ合いそうになりながらも、最後には決定的に相容れないという悲劇となる。逆に言えば、敵同士であるはずなのに親しみが生まれる。この点には、批評性を感じる。)

このドラマが、今後面白くなっていくかもしれないという期待は、第二話によってほとんどなくなったように思うのだが、ただ一つ気になるのは松坂桃李の存在だ。このドラマで紋切り型を逃れているのは彼だけだろう。おそらくこのドラマは松坂桃李のビルディングスロマンであると思われるのだが、ならば、松坂桃李の人物像を最終的にどこに持っていこうとしているのか、このドラマで、この人物にあり得る変化または成長とは、どういう形としてあるのか、という点には、まだ興味が残っている。なので、次回も(期待はしないで)観る、と思う。

(松坂桃李の、ほとんど多重人格者のような場当たり的な振れ幅の大きさ、キャラの掴めなさは確かに面白い。松坂桃李のキャラだけが、この作品によって新に生まれた何か、になり得る可能性があるように思う。)

第一回を観た時の感想と、ほぼ同じ事しか書いていない……。