2022/06/01

●「ブロッコリー・レボリューション」(岡田利規)がとても素晴らしかったので、「新潮」の2015年6月号を引っ張り出してきて「スティッキーなムード」を読んだ。まさに文字通りにスティッキーな小説だった。

岡田利規は唯一無二の作家だと思うが、にもかかわらず(というか、だからこそ、かもしれないが)、ほかの誰とでも交換可能な誰かであるような人物に憑依して、ほかの誰とでも交換可能な人にとっての「唯一の生」の感触を書く。ほかの誰とでも交換可能な人の生とは、決して紋切り型の生ではなく、「紋切り型の物語」に至ることのない、その手前で留まる生のありようであり、それは「紋切り型にすら至ることができない」ということであると同時に、紋切り型に至らないことで得られる、ひたすら灰色でダウナーな具体性をもつ。紋切り型にすら至らない、何一つ際立ったところのない無名性のなかで生まれる具体的手触り。そこでは、卑劣さや惨めさでさえ、根深くドロドロしたものではなく、どうしても落ちないがちょっとした染み程度の汚れでしかなく、しかしその「ちょっと」によって決定的に清潔感が損なわれてしまうというようなものとしてある。

●「一」から「五」までの五つの章で構成されるこの小説のほとんどの場面で雨が降っており、空気は湿っている。しかし唯一「ニ」だけが、じめじめ湿るのではなく、あからさまに水浸しになる。他の場面では、いわば空気の湿り気を畳がじわじわと吸い込むという感じなのに対して、「ニ」では、白い木の床板が水浸しになる。水浸しとじめじめとは違う。主人公「さくら」は、「ニ」で園田という男のために酷い目にあうのだが、それはつまり、まともな日常や二人の関係を根底から破壊する「酷い水浸し」にされるということで、何かを切断する特別な出来事だ。だが、それ以外の章では、破壊も構築もなく、進捗も衰退もなく、ただ外では雨が降り続き、部屋のなかに湿気が溜まっていく。「さくら」は、傘をさしても意味がないくらいの土砂降りのなかでアパートの部屋にいて、《もっとすごいことになればいい》と思い、《そしたらさすがにわたしだって起き上がるだろう》と思うが、もっとすごいことは起こらない。だから「さくら」は、自分を酷い目にあわせた園田との最後の夜を、《自分はいまあの明け方の出来事を懐かしく思いかえしている気がする》と感じてしまうし、《懐かしがっているのだとしたら、そんなの嫌だった》と考える。

●「さくら」は、「もっとすごいこと」になったら、ショッピングモールに行くのだと考える。この小説で圧巻なのは、なんといっても「さくら」がショッピングモールに出かける「一」だろう。誰とでも替わりがきくような誰かが「ショッピングモール」という場所に惹かれるというのは、割とありがちな、それこそ紋切り型の思考(取り合わせ)であるようにも思われる。しかし、誰とでも替わりがきくような誰かと、どこにでもあるショッピングモールとの、抜き差しならない関係の具体性が書かれている。「さくら」はショッピングモールでなにもしない。《なにかすることがあるなら、それをするためにどこかに行っているのだから》。ショッピングモールはそのような場所としてある。

「さくら」はある日、どこのショッピングモールにもあるような吹き抜けを、最上階(五階)からフェンスに体重をかけるようにして見下ろしている女を見る。

《さくらは、彼女は自分の分身みたいだとおもった。だって、吹きぬけが引きつける危険なかんじに抵抗するのがたいへんそうにみえるから。ときどき、抵抗するのをやめてしまうと決意しかけているときがあるみたくもみえるから。さくらにも、吹きぬけの向こう側が無重力になっていることをおもい描いているときが、よくあった。吹きぬけのほうへ身をよせると、ふわっ、とめまい寸前にまで、ひきつけられる。あのときさくらが最上階のフェンスに寄りかかる女のことをみていたのも、いまと同じ午前中のことだった。最上階の五階は、食堂ばかり並んでいるフロアーだから、そんな時間帯にあいている店なんてないから、誰も行き交っていなかった。いるのはその女だけだった。》

常に雨が降り続け、ひたすら灰色で湿っていてダウナーのこの小説で、おそらくここが、主人公の「さくら」が最も解放され、幸福である場面ではないかと思う。

●また、ショッピングモールという空間の質感が、特異な描写でとらえられている。たとえば、エスカレーター。

《それで、下りエスカレーターにのった。細かい溝のたくさんついた、黒い合金の踏板のうえにのっかると、硬質な金属の感触が靴底ごしに足のうらでかんじられた。さくらは自分のあしもとをぼんやりみていた。踏板の金属のつやをほとんどもたない黒色と、溝にできる影の黒色とがたがいちがいになっているのをながめていたら、四階についた。》

人があまり注目しないような細かいところを見ているのだし、身体の微小な感覚をひろってもいるのだが、そこに熱や意欲や生き生き(きらきら)した感じはなく、あるいは物質感の突出のような感じでもなく、低体温で、しかしそれでも、細部に目が行く程度に外界への注目を促す刺激はある(ただ、注目する場所が無機的である)、という絶妙の温度感だと思う。

●内省の形に独自なものがある。たとえば、友人の千紘がモーションキャプチャーのモデルをやるというので、「さくら」がその付き添いとしてどこかの大学のスタジオを車に乗って訪れる場面。

《キャンパスのどの建物もみおぼえがあるようにおもえた。奇抜な多面体、といったかたちをしている棟もあるけれど、けっきょくのところ殺風景だった。そのかんじが、さくらがかよっていた大学のキャンパスといっしょだった。さくらは、まるで過去を車ごしにながめているような気がしてきた。なつかしさみたいなものがやってきそうだったけれど、そういうのは気が滅入っていやだから、未然にふせいだ。》

それと、クローズアップにクローズアップ感がない、不思議なスケールの失調みたいな感覚がある。

《千紘の鼻の穴から息がでて、口のうえをかすかにすべっていった。》

●この小説は、基本的には「さくら」の視点から書かれているが、「ニ」の途中から急に(なんの「段取り」もなく)、視点が「園田」に移る。「さくら」視点に統一してきれいな形式にすることは難しくないが、ここではあえて暴力的に他人の視点が割って入ってくる。この感じが「ブロッコリー・レボリューション」に近い感覚であるように思った。

●「新潮」のこの号に、三島賞候補作が発表されていて、岡田利規の『現在地』が挙がっている。そういえば、この時期は岡田利規から関心が離れていたので、『現在地』は読んでいないのだ、と気づいた。