2022/08/17

●『獣になれない私たち』、一話だけでやめておこうと思ったのだが、すばらし過ぎて最後まで通して観てしまった。ドラマを観始めると際限なく時間をとられてしまう。

『獣になれない私たち』は、ぼくが観ている限りで一番よい野木亜紀子作品だと思う。『アンナチュラル』よりも『MIU404』よりも、そして『逃げるは恥だが役に立つ』よりも、これがすごいと思う。

これはぼくが勝手に推測しているだけのことだが、原作モノである「逃げるは…」でやりきれなかったことを、一歩踏み込んでやっているのがこの「獣になれない…」なのではないか。「逃げるは…」はある意味で啓蒙ドラマであり、大人のための道徳教材のような側面があった。それはそれで面白いし意味があると思う。ただ、「逃げるは…」の新垣結衣は、「ポッキーのCM以来、圧倒的に人気のあるかわいいガッキー」であり、そうであることによってドラマが支えられていた。だが「獣になれない…」の新垣結衣は、主役ではあってもたんに一人の俳優であり、そこは「ガッキーに萌えたい」人には不満なのではないかと思う。

というか、かわいくて優しくて、周囲に満遍なく気を使えるし仕事もできる、職場の女神のような存在が、そうであることでいかに疲弊しているのか、というところからドラマは始まる。彼女は「かわいくなくてどこが悪いんじゃボケ」というようなことを言いたいが言えない性格で、そこに付け込まれて「職場の女神」であることを強いられている。人気があるというのは、相手にとって都合がいいということである。そんな新垣が、周囲に完璧にいい顔をしている彼女を「キモい」という松田龍平と出会って、徐々に自分が言いたいことを言えるようになっていく。そういう役を、「かわいいガッキー」を常に期待されてしまう俳優が演じている。

新垣結衣は、周囲からみるととてもうまくいっているようにみえる。彼女は、実家に問題があって絶縁しているし、学歴も高くないようだ。しかし、かつての派遣先の大企業で、イケメンのエリート社員(田中圭)と仲良くなって、いずれは当然結婚という流れになっている。田中圭はとてもいい人で、優しくて責任感が強いし、新垣の現在の仕事に対しても理解がある(新垣はかつての派遣先の大企業でも評判がよく人気者で、派遣先の部長の推薦で別の会社の正社員の座を得ている)。外から見るとこれ以上望めないくらいうまくいっている(成り上がっている)ように見える人が、そのことによっていかに疲弊しているのか。彼女はけっきょく、イケメンエリートと別れ、正社員の座も捨てる。

田中圭に問題がないわけではない。彼は、仕事のみつからない元カノ(黒木華)をずっと自分のマンションに住まわしている(それによって新垣結衣といつまでも同居できず、新垣は宙づり状態に置かれている)。あるいは、二人の関係が行き詰まった夜、菊地凛子と浮気をしてしまう(菊地凛子の誘いを断れない)。しかし、新垣が田中と別れる決意をするのは、おそらくそのような「問題」によってではない。新垣は、自分が「恋愛-結婚の紋切り型」に縛られてしまっている(堂々巡りで身動きが出来なくなっているのは黒木のせいというより、そのためである)ことに気づいたから別れることを決めるのだと思われる。黒木華新垣結衣に「あなたは自分が持っていないものをすべて持っている」というようなことを言う。たしかに「紋切り型」の見方をすればこれ以上ないくらいの状況だが、しかしそうであることによってこんなにもキツイのだとすれば、「紋切り型のよい状況」こそが間違っていて(自分の望むものではなくて)、自分を縛っているのではないか、と。

(だからここで、新垣結衣の相手は、非マッチョ的でサブカル性も強い星野源ではダメで、紋切り型の理想的な男性性をもった田中圭によって演じられなければならない。田中圭が演じることで、決して押しつけがましくなく理解もあるが、その一面、チラチラと顔をのぞかせるマッチョ性を隠し切れない感じが、すごくよく出ていると思う。田中のもつ、いかにも一流企業の仕事のできる若手的な「マジョリティ感」は、このドラマでとても重要な要素だと思う。)

全十話のこのドラマで、主役の二人(新垣結衣松田龍平)は徐々に信頼関係を深めていき、九話の最後でとうとう「結ばれる」のだが、その直後に新垣は「間違えた」と言う。ここで思わず「こんなドラマある?」となる。この夜、二人はそれぞれにとても辛いことがあって、それが二人の距離の一線をこえさせるのだが、その後、二人ともが「相手を自分にとって都合よく使ってしまった、最低だ」と言って強く後悔し、反省する。つまり、関係したことそのものが間違っているというより、そのきっかけや手続きが間違っているということだ。だがこの展開が「間違い」だとすると、多くの恋愛ドラマは、間違いを勢いで肯定してしまっていることになる。

(ただここで重要なのは、このドラマが「間違い」を排して「正しい」ことだけで出来ているのではないというところだ。むしろこのドラマは「間違い」だらけで、「間違い」はあるのだということが前提とされ、その「間違い」がどう正されるのかが問題となっている。)

このドラマ自体が、「かわいいガッキー」を期待する人への批判であり、「紋切り型の恋愛ドラマ」を期待する人への批判であるのだが、それらをたんに否定しているだけでなく、このドラマ全体として、それとは別の面白さの可能性、それとは別の充実を、ひとつの実例として提示しているということこそが重要だ。

最終回で、新垣結衣は、社長に言いたいことを言った上で会社を辞める。松田龍平は、やむにやまれぬ事情で加担してきた粉飾決算について決着をつけて税理士事務所を畳む。たがいに「間違い」を清算したうえで、二人が出会った場所とは別の場所で、もう一度出会い直すことでドラマは閉じられる。二人は、「紋切り型の支配」を避け、「(他者を自分の都合で使う)間違い」を避けた上で、過程と手続きの正当性にこだわる。

(「獣」になれない新垣と松田に対して、「獣」として菊地凛子がいるのだが、「獣」だからといって、過程や手続きをないがしろにするのではない。ただ、「踏むべき過程」のありようが二人と異なるだけであり、「紋切り型の支配」を避け、「(他者を自分の都合で使う)間違い」を避けようとすること、それでも「間違い」を犯してしまうこともある、というのもまた、二人と変わらない。)