2022/08/16

●ぼくはアンチカリスマ主義で、カリスマがいるところにはカルトがあると思っている。いたるところに小さな、そして大きな、さまざまなスケールのカリスマがいて、カルトがある。

(カリスマは害悪だと思うが、弱毒化されたカリスマとしての「推し」なら、必要悪というか、まあ仕方ないのか、とは思う。)

ただこの考えは、教師や師匠のような「人」に転移できず、作品(あるいは、あくまで「作品」を介したものとして存在する「作家」)にしか転移できないという、ぼくの人格的欠損の影響によって極端に傾いている可能性がある。

人が、世界に対して存在しているのではなく、人(他者)に対して存在しているということによって、人は、ここまで複雑な社会を構築することができた。しかし同時に、そのことが、社会のいたるところに問題を発生させていることはあきらかだと思う。人が、人(他者)に対して過剰な思い入れ、あるいは過剰な嫌悪をもってしまう---つまり「転移」をする---こと(このこと自体は、人という種にビルドインされてしまっていて、どうすることもできないと思うが)を、集団的、社会的な意思決定の場において、なんとか「技術的に抑制する」ことはできないだろうか、というのが、ぼくにとってのVECTIONのモチベーションなのだが、多くの人が、人の社会のことは、人(≑人の代表者たる人)が決め、人が責任をとるべき(人が責任の主体となるべき)だという強い信念(幻想)に囚われていることを思い知らされて、しばしば困惑する。

(話はズレるが、ドラマを観ていて、登場人物が好きか嫌いか---思い入れできるかできないか---で、そのドラマが好きか嫌いかが決まる、という人をみると、そこまで「人」なのか、と、ぼくは本当に困惑してしまう。)

(単純化すれば、広義の---いたるところにある---「政治の場」からできるかぎり「人の裁量」を減らすこと、つまり、いわゆる「政治家」や「官僚」的な存在---その人の力量---をなるべく必要としないで済ませ、しかし同時にチートが抑制され、それが衆愚に陥らないで持続可能な制度を「技術的に」考えること。)

人が、「人が幸せになる(各人が現実的に可能な限り自分の魂に忠実でありえる)」ことよりもずっと、「人、あるいは人≒代表者が、(社会的な)行為の責任の主体であるえる」ことの方に重きをおくというのであれば、VECIONで考えていることは、まったくの余計なお世話ということになるのかもしれないと、思うことはある。

(そもそも、「人(≒代表する人)が責任の主体であることを放棄する」ことが「各人の魂の自由に近づくこと」につながりうるという考え方が、なかなか理解されない。この二つのことは、現在可能になった「技術」を介することではじめて繋がる可能性がみえてくるのではないか、という話なのだが。)

(究極的には、この世から「リーダー的存在」を消滅させたいという思いがあるが、これはあまりにも偏ったぼく自身の欲望でしかなく、個人的なファンタジーのなかに留めておくべき事柄だ。リーダーの位置を固定させず、局面によって流動的にその位置を常に変化させつづける、というくらいが現実的なところだろう。)