2022/08/15

●『初恋の悪魔』を五話まで観たところで、振り返って一話を観直した。テレビドラマをたくさん観る方ではないが、今まで観た日本のテレビドラマで一番キレキレだと思ったのが『獣になれない私たち』だったのだが、一話に限っていえば、それを軽く超えてきたと感じる(脚本家は違うが、演出はどちらのドラマも同じチームだ)。

一話こそが神回で、ほんの一瞬たりとも緩むところなくキレッキレで、体脂肪率5パーセント以下みたいな脚本と演出だと思った(ワンカットでも、セリフ一つでも、仕草一つでも、カットされたらもう成り立たなくなるのではないかという感じ)。それでいて筋肉ギチギチではなく、滑らかなラインと豊かなニュアンスが出ている、みたいな。

(だからこそ、この一話を初見でだいたいのところを把握できるには、それなりに多くの映画やドラマを観ていないと難しいのかもしれない。実は「映像」は、物語を語る媒体としてはあまり親切なものとは言えないのではないかと思う。観ている側が積極的に、様々な細部や要素を拾いにいかなければならないし、展開を追いながら、それら諸要素の関係を探っていかなければならない。ぼうっとしているとどんどん流れ去ってしまう。だけど、そこを親切に作ろうとし過ぎると、説明的になってかったるくなってしまったり、極端に単純化しすぎて退屈になってしまったりする。その点は小説の方が親切である---すべての小説が親切ではないが、親切であり易い---のではないか。)

一話において林遣都は、警察官(捜査側の人)であると同時に「キラー属性がある」という二重性を指摘され、本人もその気になるし、また、松岡茉優への好意を殺意だと勘違いしたりする。だが、ここで林に与えられた二重性はフェイクであり、五話までの展開を見る限り林は、主要人物中で最も二重性(二面性)的な要素が希薄な人物であろう(仲野のような処世術モードもなく、松岡への好意もいわばダダ洩れであり、背後に何かを隠すということが難しい人物にみえる)。最初にフェイクとして林に与えられた二重性が、最後の場面でふっと、本命である松岡の方へと移動して断ち切れるように終わるという流れには、ゾクッとくるものがある。

●それで、『獣になれない私たち』の一話だけを改めて観たのだが(『初恋の悪魔』と同じくHuluで観られる)、これもやはり素晴らしかった。演出が切れているというのもあるが、なにより脚本が素晴らしい。野木亜紀子によるオーソドックスによくできた脚本(骨格がしっかりしていると同時に、細部の精度が高く切れがあり、様々なレベルで繊細でもある)によるドラマを観ると、それと比べて坂元裕二の脚本がいかに変則的で、歪んでさえいるかと思う。本当にユニークな、独自のやり方で組み上げられているのだなあ、と。おそらく、これから脚本を勉強しようとする人にとって、野木亜紀子の脚本はお手本になるかもしれないが、坂元裕二の脚本はお手本にはならないのではないだろうか。

(セリフの書き方とかはお手本になるかもしれないが、ドラマ全体としての構築の仕方は独自過ぎて真似できないのではないか。)

あえてタイトルは挙げないが、有名なSF小説をイギリスのテレビ局がドラマ化したもの二話まで観たのだが、お金もかかっていて丁寧に作られてはいるが、平均80点の脚本を仕上げるメソッドと、平均80点の演出をするメソッドでつくられた、80点のドラマを、決して退屈ではないし駄作ではないという理由で、このまま観続ける意味があるのだろうかと思ってしまう。ちょっとした脇役の女性とかが面白くて、見所や魅力がないというわけでもないのだけど。

そういう意味で、坂元裕二の脚本は、平均80点の脚本を仕上げるメソッドとは程遠いやり方でつくられているようにみえて、バランスがいいのか悪いのかわからないところで成り立っているギリギリのバランス、みたいな感じが面白い(野木亜紀子の場合は、95点をこえてくるみたいな、ここまでくるとさすがに80点とは質が違う、という意味で、精度の高い脚本なのだと思う)。