2022/08/13

●『初恋の悪魔』、第五話。ある意味、予想通りに、予想できない展開がきた。『カルテット』では六話(五話のラスト)で失踪していた松たか子の夫(宮藤官九郎)がいきなりあらわれ、『大豆田とわ子と三人の元夫』でも、六話で市川実日子の死という、それまで積み上げられたドラマの世界がいったんひっくり返されるような予想外の展開があった。『初恋の悪魔』でも、このパターンは踏襲されている。

(前回を柄本回と解釈するならば、地固めの初回、仲野回、松岡回、柄本回ときて、今回が林回で、主要人物の掘り下げが一周して、最初の段落が終わるという展開も、『カルテット』や『大豆田とわ子…』と同じだと言える。)

『カルテット』の五話で、屈辱的な仕事を経験した後に、初心に戻るようにして路上で演奏することで、四人の関係がもっとも良い状態にまで高められるのだが、その次の瞬間に吉岡里帆の大暴走があって、満島ひかり松たか子を騙していたことが発覚し、「最も良い状態」が崩壊する(実際には崩壊はしなかったのだが、その時点では崩壊するとしか思えない)、という展開があった。なので、『初恋の悪魔』の五話でも、四人がカラオケで楽しそうに歌っている場面を観て、あー、もうこれ、次に崩壊がくるに決まってるじゃん、と思ってしまった。松岡茉優が仲野太賀に、「自分のことを憶えていてほしい」と言い、仲野が「憶えなくても、忘れるわけがない」と言う場面で、これもう二人の関係崩壊のフラグ以外なにものでもないと思うのだった。

『カルテット』でも『大豆田とわ子…』でも、五話で、物語の序盤の前提が崩れて、次の六話において、今までは潜在的なものであった物語の真の問題提起がなされるので、『初恋の悪魔』でもまた、同様の展開があるのだと思われる。

●だが、『初恋の悪魔』が他の作品から際立つところは、その凝縮度だと思う。一話に三話分くらいの展開がぎゅっと詰め込まれている。しかもそれは、一つのドラマの三話分ではなく、三種類か四種類くらいの別のドラマが同時進行しているような感じなのだ。検索して、このドラマの感想をみていると、このドラマを面白いと言っている人でも、人によってそれぞれ別の要素に反応して(惹かれて)いる。全体の謎に惹かれている人もいれば、四人の仲良しわちゃわちゃに惹かれる人もいるし、松岡と仲野との恋愛要素に惹かれる人もいれば、林遣都の孤独の方に思い入れをもつ人もいれば、いわゆる「名セリフ」に反応する人もいる。ミステリなのか、コメディなのか、恋愛なのか、生きづらさをもつ非主流的な人たちのコミュニティ(保守的なものへの反感)の話なのか、どの要素に注目して、どの要素を中心として観るかによって、かなり見え方が変わってくるような、多焦点的というか、玉虫色的な性質をもっているように思われる。

●ここまで観てきたなかで、二重性と鏡像的反響という主題は確実にあるように思われる。松岡茉優の多重(二重)人格というのがその中心にあるのだが、それだけではない。仲野太賀は当初、「負けている人生は、誰かを勝たせている人生でもあるから、それでいい」というようなことを言うのだが、それは仲野の本音ではなく、そのような無害な人間であるかのように生きる彼の処世術であることが、彼と松岡との交流のなかで徐々に浮かび上がってくる。婚約破棄された仲野は当初、「自分がふられたということは、別の誰かが結ばれたということで…」という、いつのも処世術モードで松岡に対するのだが、松岡との関係のなかでより自分を強く出し、「私がふりました」と断言する。だが、だからといって、「わかりました、わかりませんが、わかりました」という処世術モードを捨てるわけではなく、彼は二面性を維持する。仲野は松岡の二面性を受け入れ、引き受けようとするが、松岡は逆に、仲野の二面性(本音モード)を引き出して解放する。二つの二面性が、互いを映し合うように救い合う。

五話においては、親切な老婦人(山口果林)の二面性(裏の顔)が問題となる。しかしここでも、親切にみえた人の醜い裏の顔(真の姿)を暴く、というようなことがなされているわけではない。本来は善良な人でも境遇によってダークサイドに落ちてしまうことはあり、ダークサイドに落ちてしまった孤独な魂が、また別の孤独な魂(林遣都)によって救われることがある、という話になっている。二つの孤独な魂(冷血な変人)が、互いに互いを救い合う。

(よい人がよいことをするとは限らないし、わるい人がわるいことをするとは限らない、と、以前林は言っていた。)

(一話完結の「事件」が、主要な登場人物の感情と共鳴するという意味では、一話完結のパターンは五話でも---おそらく「五話までは」だと思われるが---踏襲されていると一応は言える。)

そして、善良な人でもタークサイドに落ちてしまうことがあるという点で、五話の山口果林と、四話の柄本佑は鏡像的であり、響き合っている。二人はともに、愛する人が被害にあうことで「他人を勝手に裁く」という行為(そうしたい、それが正しいという感情)に陥ってしまうという点で共通している。そして林遣都は、そのどちらに対しても抑制的に働く。柄本佑のダークサイドと、山口果林のダークサイドとを共に救った林遣都が、今度は松岡茉優のタークサイドと関わる、というのが今後の展開だろうか。

(二重性と鏡像的反響というモチーフが、さまざまな形で展開され、変奏されるという意味で、音楽的な構成だと言えると思う。)

●ここまできてちょっと気になったのは、佐久間由衣の存在だ。白佐久間と黒佐久間という、二つの佐久間が存在する。佐久間は普段、白いシャツに白い(あるいはクリーム色の)パンツで、その上からクリーム色とかグレーとかのニットを着ている。この時の全体の印象は「白い」。しかし時々、上に着るニットが「黒い」ことがある。もちろん、誰だって黒い服を着ることくらいはあるだろう。しかし、白い印象の時と黒い印象の時がはっきり分かれていて、その中間がないのだ。二重性と鏡像的な響き合いが至るところにあるこのドラマで、このことは気になってしまう。

(それに、佐久間由衣は、松岡茉優がかつて銃で撃たれたのと同じ、右の鎖骨の辺りを、四話で、ダーツで撃たれている。)

(『カルテット』では、周辺的な人物だと思っていた吉岡里帆が、突然強く前面に出てきて驚かされたのだが、そのような展開もあるのだろうか。)

坂元裕二のドラマをいくつか観て思うのは、坂元裕二は積み上げた前提をひっくり返すようなどんでん返しを行うが、それは「ひっくり返す」ではあっても「崩壊させる」ではなく、むしろ別の角度から見ることで前提を強化するという側面が強いということだ。つまり、視聴者の感情を引き付けるためだけに、視聴者の感情をかき乱すことを目的としたようなどんでん返しは行わないと思われる。主要な四人の人物の関係が変化することはあっても、それが根本的に崩壊してしまうことはないのではないかと思っている。