●最終回の前に、『初恋の悪魔』が、いかに奇妙な作品であるかについて、ちょっと書いておきたい。
たとえば五話では、娘と孫が事故死したことで逆恨みして、事故に直接関係があるというわけではない役所の男性を、私的制裁として(全く理不尽に)地下室に監禁する女性が出てくる。しかしその女性は、その一方で林遣都に優しく接し、監禁した男性に恨み言を言うその同じ口で「世の中は美しいものではないけど、自分を醜くしてはいけないよ」というようなことを諭すように言う。そして心を閉ざしていた林遣都は、この女性との交流によって変化していく。
(五話のこの女性=山口果林の二面性は、三話の松金よね子の二面性の、拡大された反復としてある。)
通常の、紋切り型のドラマであれば、あんなに優しい感じのお婆さんに「恐ろしい裏の顔」があったということになって、その「裏の顔」こそがその人物の真実であるかのように語られる。しかし『初恋の悪魔』では、この裏表は、互いに自律したまま両立し、「恐ろしい裏の顔」は、本来善人である女性が一時的に落ち込んでしまったエアポケットのようなものとして、善人であるお婆さんから「切り離されて」あるかのようだ。
林遣都と交流する優しいおばあさんと、逆恨みして人を監禁する恐ろしい女性とを、一人の人物(人格)の中に両立するように同居させ、その上で、「優しいお婆さん」の「優しさ」のイメージをもう一面の「恐ろしい女性」のイメージによる影響(汚染)を受けないままに保つ。紋切り型のドラマ、紋切り型の人間観からすると、そんなことをしたら、登場人物像の辻褄が合わず(松岡茉優以上に人格が分裂している)、ただ物語の都合によって存在しているように見えて、人物にリアリティや説得力がなくなってしまう。というか、物語としても分裂してバラけてしまうように思う(時間=持続=流れの連続性が破綻してしまうだろう)。
このような分裂を、(ある種の「構成力」によって)力技で強引に接合しているのがこのドラマの特徴だと思う。相容れない二面性(裏と表)を、混ぜ合わせないままで接合させて両立させる(別の言い方をすれば、「中間状態」がなく、くるくる反転する)。
また、このドラマでは、以前の坂元裕二のドラマ、たとえば『カルテット』や「大豆田…」に比べても、(あえて嫌な言い方をするが)「きれい事的な名セリフ」が過剰なくらい多く使われている。だが他方で、物語の展開はいつになくエグいものになっている。登場人物たちは皆、優しくて、いいことばかりを言うのに、物語は猛スピードでえげつない深みに進んでいく。このギャップの凄さにクラクラする。この場合もまた、紋切型のドラマであれば、いくら口先だけできれい事を言っても、そんなものは上っ面で、厳しい現実を反映していない、と言うような感じになると思われるのに(現実の厳しさが真実であり、きれいな言葉は嘘である、あるいは汚い現実に負けてしまっている、という感じになるだろうに)、このドラマでは、物語のえげつない展開によって「きれい事的名セリフ」の説得力が揺らぐことがあまりなく、両立している。だからこそ双方にギャップが生じてクラクラする。ここでもまた、相容れない二面性が混ぜ合わせられない(中間状態がない)まま接合されている。
(コメディ的要素と、シリアスな展開という、相容れないものの接合もある。)
(松岡茉優の人物像は、この作品の構造そのものを反映している、と言える。)
二面性とその反転は「犯人像」にも及ぶ(犯人像の反転は、相容れないものの両立というより、正→反という時間的推移として現れる)。まず、犯人もしくはその協力者と疑われた毎熊克哉は、実は、過剰なくらい「いい人」であり、犯人であるどころか、犯人を追い詰めようとさえしていたと分かる(反転)。出来る兄(毎熊)とダメな弟(仲野太賀)という図式も反転される。次に、伊藤英明は、いかにもシリアルキラーであるかのような、怪しさと恐ろしさを持った人物であったが、実は、犯罪に手を染めていることは確実であろうが、そこにはどうも止むに止まれぬ事情がありそうだということになってきている。怪物のように恐ろしげに見えた伊藤が、実は結構泣き虫であるというキャラの反転も見られる。この感じで行くと、真犯人であるかのように登場した菅生新樹にもまた、何かしらの(同情すべき)事情があったということになるのではないか。このようにしていくと「悪の根本原因」は無限後退していくことになる。つまり、「悪」は「様々な事情」の中に散っていって、「根本的な悪の責任主体」にはどこまでいっても辿り着かない事になる(のではないか)。
だが、行為としての悪はなされた。三人+一人が殺されたし、三人の人物が冤罪で服役させられている。「行為(出来事)としての悪の実在」と「責任主体としての悪の不在」。この、二つの相容れないものを、この作品はどのように関係づけるのだろうか。