2019-02-20

国立西洋美術館で「ル・コルビュジエ 絵画から建築へ---ピュリズムの時代」を観た。面白かった。

画家としてのコルビュジエ(ジャンヌレ)の作品も、コルビュジエの絵画の師匠であり「ピュリズム」の同志でもあるオザンファンの作品もかなり興味深かったし、ピュリズムとの対比として展示されていた、ブラック、ピカソ、レジェなどの作品も「かなり良い」部類のものだと思えた。それに、スタイン=モンツィ邸(ヴィラ・シュタイン)やサヴォア邸などの模型をじっくり観られるのもよい。

(コーリン・ロウの「透明性 虚と実」で、虚の透明性を最も端的に示す例としてレジェの作品が挙げられていて、そのことにイマイチ納得し切れていなかったのだが、展示されているレジェの「横顔のあるコンポジション」や「女と花」などを観て、なるほど、これか、と納得した。)

ブラックやピカソなどの完成されたキュビズムの作品が、(複数の視点というよりも)多数の平面を相互貫入させることで、相容れない複数の場の共立を成り立たせているとすれば、オザンファンやジャンヌレ (コルビュジエ)によるピュリズムの絵画作品は、凹凸反転や、包む物と包まれるものとの反転など、絵画の場に多数の反転を仕掛けることで、相容れない複数の場の相互貫入を実現させているように思った。

(反転とは、多ではなく二であり、二項の反転である。だから多反転とは、複数の異なる二項関係が並立しているということになる。二×多。複数の二項対立を媒介することによって---結果として---現れる第三の項としての平面=絵画。)

そして、ピカソやブラック、あるいは同志であるオザンファンの絵画と、ジャンヌレ (コルビュジエ)の絵画との最も大きな違いは、前者が、複数の場の共立を実現させながらも、同時に、一枚の画面としての強さを実現しようとしているのに対して、後者(ジャンヌレ)は、一枚の画面としての強さをそれほど重視してはいないようにみえることだ。この傾向は、画家としてのキャリアをつめばつむほど顕著になってゆくように思われる。前者の指向を近代絵画の王道だとすれば、その基準からみるとジャンヌレの絵はやや弱いと言えてしまうかもしれない。しかし、現時点から振り返ってみれば、(多平面的であるというより多反転的であるというピュリズムの特徴も含めて)近代絵画のあり得た別の可能性として、とても興味深く感じられた。

ジャンヌレにとって、一枚の絵画を、複数の経験や感覚を結びつける場として成立させているものは、全体が「ある隠れた韻律」のようなものによって統合されているということで、一つの平面として視覚的にピンとした緊張感のある張りがあるということではないように思われる。このことが、完成度の高いキュビズムの作品などとは違った複雑さを作品に実現させているように思う。

たとえて言えば、ある建築物を一定の時間をかけて見て回った経験が、非時間的であると同時に非空間的でもある形で統合され得る場として、絵画が考えられていたのではないか。非時間的というのは、時間の継起性とは別の形でということだが、非空間的というのは、複数の異なる距離感やスケール感(建物の正面からファザードを眺めるスケール感、建物の内部に入り込んで歩き回っている時のスケール感、細部の仕上げに気づいたり、色彩や手触りの変化などに反応する時の距離感、など)が、同等に並立してあるような形で、ということだ。時間的経験が時間の秩序とは別の秩序で、空間的経験が空間的秩序とは別の秩序で配列されている、という感じ。

(多平面的というのは、まさにコーリン・ロウの言う「虚の透明性」のことだと言える。この時、絵画はリテラルなものではないとしても、相容れないものが相互貫入する「虚の空間」として---絵画独自のイリュージョン=絵画空間として---空間的に把握=感覚される。しかし、ジャンヌレ=コルビュジエの場合---後期の作品においては特に---絵画は、非時間的かつ非空間的な配置を実現させ得るものとして捉えられているように感じた。)