2023/10/02

⚫︎メモ。ホックニーの初期(60年代)作品は、高いスケッチ能力とポップアート的な感覚を巧みに組み合わせたもので、センスがいいとは思うものの、ぼくとしてはそこまで興味を惹かれるというものではないが、60年代後半に「プール」を描くようになって、絵画空間への意識が変わってくるように思う。さらに、80年代初頭のフォトコラージュ、90年代初頭に舞台美術に関わることで、二度目、三度目の空間意識の変化があったようにみえる。変化といっても、別の方向へ向かったのではなく、より複雑になり、より深まったということだが。ポップアートからプールへの移行には、切断というより、空間性の緩やかな変質があると思うが、それ以降の変化は、変質というより複雑さの深まりであるように思う。

描く対象として、ホックニーには一貫して人物への関心があるが、それとは別に、プール→室内→風景→よりスケールの大きい風景(自然)と関心が移っていくに従って、絵画空間の複雑さが増していくように思う。

おそらく、プールという空間、あるいは場が、ホックニーに対して空間意識の変化を促した。下の写真は、右が60年代のプールで、左が70年代のプール。

右の絵は、ポップアート的であり、そんなに複雑な空間ではない。しかし、左の絵は、リトグラフなのだが、一枚の画面ではなく、六枚の紙を組み合わせて一つの作品としている。おそらくこれは技術的な要請によるもので、リトグラフではそんなに大きい画面をいっぺんには刷れないから六枚に分割したということだろう。しかしこのことで画面の一望性が後退し、六つのフレームの間にわずかな遅延というか、時間差が生じる。これは決定的なことであり、おそらくこれが、フォトコラージュへと繋がっていく。

複数のフレームの間にはわずかな時間差がある。この時間の幅は、対象に属する時間の幅であり、また、それを観る側にとっての、認識する時間の幅でもある。時間の幅は内部に運動を含み、この運動もまた、対象の運動であると同時に認識のための運動(眼球の動き、頭部の傾き、身体の移動、そして、それらによって得られた複数の視覚像を脳内で統合する動き)でもある。この多視点=時間の幅が、脳内で統合されることで空間の感覚が生じる。

さらに、そのようにして得られた多視点的な視覚像を、再び平面の上に再構成するとき、その平面像は必然的に「歪み」を含むことになる。一枚の画面の中に、どのようにして「歪み」を畳み込むのかというそのやり方によって、それぞれに異なる絵画的な空間経験が構成される。物=見えるものの配置によって、歪み=見えないものがレイアウトされ、歪みのレイアウトが空間経験を作る。それがまず、プールという開かれて単純な、比較的再統合しやすい空間で試みられ、それが、室内、風景という、より複雑で、多くの歪みを含まざるを得ない空間を、平面的に再統合するという試みへと進展しいていく。