⚫︎RYOZAN PARK 巣鴨で、連続講座「未だ十分に尽くされていない近代絵画の可能性について(おさらいとみらい)」、第二回「「実の透明性/虚の透明性」を魔改造する」。スライド600枚弱で、四時間を超えるイベントになった。コーリン・ロウ+ロバート・スラツキイの論文「透明性―虚と実」の解説から始まって、幽体離脱的な、一でもあり多でもある「わたし」というありようを実現する表現(魔改造された「透明性」)に至るところにまで持っていくのに、最低限そのくらいかかった、ということだ(アーカイブもあります)。
流れとしては、「透明性―虚と実」の解説→論文にない実例の提示→セザンヌの分析(「りんごとオレンジ」から、晩年のブランクのある作品について、ホックニーの写真との類似性など)→カントールの塵とブランクについて→小津安二郎『麦秋』と成瀬巳喜男『稲妻』の特定場面のカット割の分析と比較→多平面的(多レイヤー的)空間表現としてのアニメティズム(トマス・ラマール)について。ここでいったん休憩。
続いて、桂離宮の庭園回遊ヴァーチャルツアーと分析(「かつてあったことと、これからあるであろうことについての無知」「自身が遠くに没入している」をもたらす空間)。休憩。
終盤は、小鷹研理による幽体離脱研究を参照しつつ、小鷹研のいくつかの作品(装置)と「知らせ」(神村恵+津田道子)の紹介→チェルフィッチュ『フリータイム』とアピチャッポン『光りの墓』の分析。虚の透明性が拡張・進展された表現としてチェルフィッチュがあり、実の透明性が拡張・進展された表現としてアピチャッポンがある、というところで、一応終わり。
直前まで、『寝ても覚めても』(柴崎友香)と、「音から作る映画」シリーズ(七里圭)についても触れたいと思って準備していたが、時間的にもどうやっても入りきれなかった。柴崎友香における、東京と大阪というバイロケーション性(≒虚の透明性)と、七里圭における、とにかく「重ねまくる」、実の透明性を極限まで過激に追求することによって実現するもの、については、また別の機会に考えたい。