2024/02/26

⚫︎連続講座の2回目は、虚の透明性という概念が、グリーンバーグ、フリード、クラウスというアメリカ型フォーマリズムの言説の流れにおいて致命的に欠落しているものを補完しているということを示すとともに、実の透明性・虚の透明性という概念を思い切り拡大解釈して、その可能性をモダニズムを超えて、現在の作品、そして美術以外のジャンルの作品にも見出していく、という感じだ。

その一例として小津安二郎の「虚の透明性」性について見ていくために、ある映画のある場面のセットの空間とカメラの位置と俳優の動きを詳しく見ていくのだが、改めて分析してみると、なんだこれはと思うような変な撮り方をしているのがわかった(前々からすごく変なシーンだと思っていて、一度ちゃんと細かく調べてみたかった)。小津の特異性を際立たせるために、オーソドックスなカット割りをすると思われる成瀬の映画のある場面で同じようなことをしてみたのだが、これもとても面白かった。

普段映画を観る時は、カット割りをあくまで視覚的なものとして捉えていて、このカットとこのカットとがこう繋がることで、こういう映画的な空間が開けるのか、みたいな見方をするが(つまり、「映画として」「モンタージュによって」このような空間が立ち上がる、という見方をするが)、そうではなく、まず、三次元空間に建てられたセットの設計がどうなっているのかということを映画から割り出そうという動機で観て、正確な縮尺まではわからないが、空間の配置としてはこれで間違いないだろうというところまで調べて図面をつくる(この作業がとても楽しい)。そして、その空間の中で、俳優がどのように動き、カメラの位置がどのように移動したのかということを割り出して、図面に書き込んでいく。

そうやってみていくと、成瀬のカット割りでも、ここでオーソドックスに切り返しをしているが、次で現実空間としては飛躍している、とか、ここでカメラを引くのは、手すりに寄りかかっているという高峰秀子の状態を示すと同時に、この後で階段から降りてくる男のアクションを準備しているのだな、とか、そういうレベルで色々発見があってとても面白い。

(セットの空間が、俳優の動きや演技、カット割りまでを、強くアフォードしているということがとてもよくわかる。)