2021-02-24

YouTubeにあった『浜梨』(関田育子)の動画を観た。

https://www.youtube.com/watch?v=1uFqo_t3TFE

舞台の上手から下手の空間が、マンガの見開きの二ページのように使われていて、そこに多平面的に複数の視点(フレーム)が配置され、そのコマ割りが時間の経過とともに変化していく、という感じか。舞台空間は、連続したひとつの空間であるとは限らず、複数の視点へと分割されるし、その分割の仕切りも流動的になっている。舞台と観客との関係の一方方向性を利用して、舞台空間が、多数のフレームが共存する横への広がりとして、平面的に捉えられている。ここでコマ割りのコマ(フレーム)は、マンガのように可視化されてはいなくて、フレームの仕切りは、俳優の動きやセリフから立ち上がる。観客は空間の仕切りや視点の変化を俳優の演技から読み込む必要がある。現実空間における俳優の動きを見ることによって、現実から一拍遅れて、見立てられた空間を読み取ることになる。

あくまで演劇である『浜梨』が『盆石の池』と違うのは、舞台空間が「マンガの見開きの二ページ」と同様、多フレームを並立させるためのメタフレームとして固定されているという点だろう。『盆石の池』の画期的なところは、カメラを用いることで、固定されたメタフレームを消滅させてしまったという点にあると思う。俳優の演技によって生じる見立てられた空間の仕切りも流動的ならば、カメラの置かれる位置(俳優の動きとカメラとの関係)も流動的であるから、この二つはあくまで相互作用的であり、俳優の動きによるフレーミングとカメラによるフレーミングのどちらか一方が優位に立つことはない。地位が同等で原理の異なる二つのフレームが掛け合わせられることによって、「現実空間の三次元的な秩序」に規定されない別の空間と時間の生成が可能になっている。

(映画においては多くの場合、「俳優の動きによるフレーミング」という要素が弱いため、カメラのフレーミングモンタージュが俳優より上位---ここで「上位」とは、カメラのフレーミングが俳優の動きを外から包み込んでいるという意味であって、俳優よりカメラの方が重要だという意味ではない---となるが、『盆石の池』では相互包摂的な構造になっていると言えると思う。)

見立てを読み込むことによって虚の空間が立ち上がるという性質によって、場面の理解や空間の理解の「遅れ」の速度に違いが生まれる、というところも面白い。ある場面では、誰が何をしていて、空間がどのように仕切られているのか、すぐに分かるが、別の場面ではなかなか分からない、ということが起る。観客は、俳優の動きをリアルタイムで見ていながら、それとは別の、複数の「遅れた時間」を体験している。最近の演劇では特に珍しいことではないだろうが、『浜梨』では同じ俳優が何のことわりもなく(衣装やメイクを変えるという「印」もなく)当然のように複数の役を演じる。このことも、理解の遅れの速度に違いを生む要因になっていると思われる。たとえば、冒頭の場面は、おじさんが鳩に餌をやっている場面なのだが、ここで、誰が、何をしているのかが理解できるようになるのは、かなり話が進んだ後になる。誰かが、なにか動物に餌をやっているのだろうというのはすぐ分かるが、(一人の俳優が複数の役をやるので)それが誰なのか、その動物が何かのかは、なかなか分からない。

(小さな遅れとしては、逆上がりや滑り台を滑るを示すの仕草が印象的。)

(これは『盆石の池』でもみられたが、場面転換する時、しばしば、その後の場面で俳優がとる身振りが、先取りされて前の場面の最後に食い込んでくる。理解の遅れとは逆向きに、仕草が前のめりであらわれる。これは、ここで場面が転換するという印でもあるのだが。)

ひとつ気になったのは、『浜梨』にも『盆石の池』にも共通することなのだが、その奇妙な「古くさい感じ」をどう考えればよいのかということ。『浜梨』の中心には、ほとんど小津の映画からトレースしてきたような、父と娘と父の再婚相手の関係があるのだが、この物語がいったい「いつ頃」の話なのかがよく分からないようにふわっとしている。言葉遣いも微妙に古いので、『晩春』の頃(1950年前後)くらいの話なのかと思うと、その時代に家庭にヘアアイロンがあるだろうかということが疑問となる(このヘアアイロンの場面の絶妙な気持ち悪さはすごいと思った)。具体的にいつ頃ということはない抽象的な「昭和」というイメージなのかもしれないのだが、そうだとすれば、そのような時代の扱い方はやや危ういかもしれないという気もする。

(『盆石の池』は『長屋紳士録』の時代だと考えても矛盾はないように思われる。)

とはいえ、このような、あからさまに古い話、古い言葉を、現代の若者が、現代の若者のする身体の動きをもちいてリプレゼンテーションするという「時代錯誤」感は面白いと思う。古い方(物語・言葉)にも、新しい方(身体・身振り)にも、どちらか一方には寄せていない、いつでもなくどこでもない宙に浮いた感じ。

(あとひとつ、とても印象的だったのは、『浜梨』で俳優は、他者にだけではなく、自分自身にさえもまったく「触れる」ことがないという点。仏壇に向かって祈る時にさえ、掌と掌とを合わせることがなく隙間が空いている。)