2021-02-22

●関田育子『盆石の池』の配信をなんとなく買って観たのだが、これはすごい発明なのではないかと思った。演劇に親しくない者としてあえて雑な言い方で言えば、はじめてチェルフィッチュを観た時くらい驚いた。

http://scool.jp/event/20210221/

この興奮は勿論、作品としての面白さに対してのものでもあるが、自分勝手な言い方だが、自分自身の制作に対して光が射した、大きなヒントをもらった、という側面も大きい。この作品を観て、自分が考えているいろいろなことが繋がり、そして、実現が難しいと思っていたことに、もしかすると実現可能かもしれないという希望が持てる感じになった。

かねてから、マティスにはエッシャーが足りなくて、エッシャーにはマティスが足りないと考えていて、アーティストとしてのぼくに今後できることがあるとすれば、その両者を繋げたものをつくることではないかと考えていた。時空構造そのものがだまし絵となっているような時空でこそ可能になる色のある経験。そのために適当なメディウムはおそらく、小説、映像、あるいはVR、建築ではないか、と。

(一昨日の日記ともつながるが、それはたとえて言えば、桂離宮を周遊する時の経験に近いものをたちあげることだ。連続したパースペクティブを断ち切られ、その都度、異なるスケール感をもつ空間が不連続的に立ち上がり、その不連続なシークエンス間の可変的なネットワークとして時空が経験される、というような。)

とはいえ、映像でそれをやろうとすると、とても大がかりなセットを組んで、そこでとても複雑なカメラの移動を実現させる必要があると思っていた。そのような大きなお金がかかることを実現させられる望みは、現時点のぼくにはない。可能だとすれば、ゲームのような仮想空間として、そのような時空構造をつくることだが、しかしそのような技術は自分にはない。建築はそれらよりさらに遠い。

だが、大がかりなセットなどなくても、カメラの位置とフレーミング、そして空間のなかでの俳優の動きと配置(カメラと俳優の関係)、映像のモンタージュ(ある映像と別の映像の関係)、そして視線、などによって出来ることが、またまだたくさんあるのだということをこの作品によって知らされた。こんなにちょっとした工夫(発明)で、こんなにすごいことになるのか、と。

マティスエッシャーも、絵画が二次元であるという特質に最大限に依ることで、われわれにとっての現実である三+一次元という時空を超え出る、超三+一次元的な時空構造(経験)を実現させた。この作品でも、カメラが写し取ることで、演劇的な三次元(的フォーメーション)が二次元化するという特質を介することで、三次元を超える経験が表現されていると思う。二次元性(平面性)には、まだ可能性があるということを知らされた。二次元化することで、視点が浮遊し、位置を失う。

(この作品はあからさまに小津的だが、それは、ゴッホが浮世絵を無理矢理に油絵の具で模写した、みたいな感じで、それによって「映画」との違いがより際立っているように思う。)