ICC、エマ―ジェンシーズの「盛るとのるソー」(小林椋)を観た。すごく雑駁な言い方をすると、二次元と三次元の次元を越えたピタゴラスイッチのような作品。しかし、ピタゴラスイッチが、直接的接触と、重力、摩擦力、弾性、慣性の法則などの物理法則によってだけ、物と物とが関係し、運動が生まれるのに対し、「盛るとのるソー」では、そこに電気的、電子的テクノロジーが介在する。それは一方で、モーターやアームという素朴で工作的なものであり、もう一方では、デジタルカメラと高精細ディスブレーという高度なテクノロジーである。造形的にみても、モーターやアームで動くにの相応しい、積木的、素朴な手作りの工芸品的な形態と、今日的な工業製品としてデザインされた、カメラやディスプレイがコンバインされている。
ピタゴラ・スイッチにおいて運動を生じさせるのは重力と弾性だが、「盛るとのるソー」では主に電気とモーター(追記、あと、タイマー)であろう。モーターが可能にするのは持続する反復運動であり、一つの運動過程の循環である。そして、一定時間で循環する運動をつくりだす装置があり、循環時間の異なる複数の装置の組み合わせにより、より複雑な運動を反復させる装置を組み立てることも可能になる。ごく素朴な仕掛けから、高度な精密機械としての時計などまで、これと同一の原理で動くと考えられる(ロボットやアンドロイドになると、電子計算機による制御を受けているから、これとは不連続になる)。この意味では、電気的なモーターは、非電気的なゼンマイと、機能としては変わらない。ゼンマイが、弾性の高度な応用であるとすれば、ここまではピタゴラスイッチと連続的だと言える。
そのような、素朴な運動装置の内部に、デジタルカメラとディスプレイが組み込まれる時に、そこで何が起るのだろうか。それによって生じるは、撮る・撮られる・映す、という、物理的な直接接触とは異なる由来による関係性だろう。つまり、物理的な運動装置のなかに「視覚的連関」が持ちこまれる。しかし、この視覚的連関は、この装置そのものがつくり出す運動にかんしては、ほとんど何の影響も与えない。カメラの拾う光や、ディスプレイの発する光が、物理的な運動に影響するスイッチをオン、オフするという過程は、この作品には含まれていない。カメラは、運動する装置の上にいることによって運動し、その結果カメラの写す像も運動するし、それにより、ディスプレイに映される映像も運動する。そして、そのディスプレイ自体も、装置によって動いている。つまり、カメラとディスプレイとが生みだす「視覚的連関」は、この物理的装置の運動を反映はしているが、ただ反映しているだけだと言える。
ここで、その反映像を、物理的装置へと再び結びつけるのは、この作品を観ている観客ということになる。つまり、観客の存在がなければ、物理的装置→反映像という影響関係は一方的であり、そこで終ってしまう。そこで、反映像→物理的装置という連関をつくりだすのは観客の認識や感覚であり、作品は、そのような観客の認識の関与によってはじめて一つの循環構造をつくりだす。そのような意味で、観客はこの作品装置のなかにあらかじめ巻き込まれるようになっている。作品自身が観客のメーティスを予め盗んでいる。
観客は、そこに置かれているオブジェクトと、ディスプレイに映し出されている映像との間に、明らかな、形態的、表情的な類似性を発見し、三次元と二次元との間に関連を見出す。そしてさらに、オブジェクトとカメラとディスプレイとの間に、撮られる・撮る・映すという連関があることを見出すだろう。そして、オブジェクトとカメラとディスプレイとの間に仕掛けられた連関の、ちょっとしたねじれや頓智に、にやっとしたり、それを楽しんだりしつつ、その空間に張り巡らされた、関係と無関係とのネットワーク(会場には、他のオブジェクトとはまったく無関係に、自律的に気まぐれに動く---しかし、形態的、表情的な類似性のある---オブジェクトもある)の複雑さに、感嘆したり、それを味わったりする。
ディスプレイに映し出される木製のオブジェクトは、どこかしら、CGによってつくられた形態のような表情ももつため、木製のオブジェクトは、実は最初はCGで描かれることで設計され、後に三次元化されたもので、実は二次元こそがオリジナルなのではないかという感覚も生じる。これもまた、観客の感覚によって反映像→オブジェクトという連関がつくりだされるということだと思う。
しかし、そうだとしても、作品それ自身の連関としては、物理的装置→反映像で途切れていて、反映像→物理的装置という循環には至っていない。つまり、反映(あるいは、取り込み)はしても融合はしない。このことのもつ意味は大きいように思う。作品は、一方で観客の感覚に働きかけ、それを巻き込もうとするのだが、もう一方で、自律的な装置としてあり、その自律的な装置としての構造が、観客の過剰な感覚的な思い入れを抑制する感じがある。作品に、観客への効果から切り離されてそれ自身として存在する何かがあるかのような、超然とした存在であるかのような表情を湛えさせているように思う。