●お知らせ。勁草書房のウェブサイト、けいそうビブリオフィルに、「虚構世界はなぜ必要か?」の第25回目、「ここ-今」と「そこ-今」をともに織り上げるフィクション/『君の名は。』と『輪るピングドラム』(4)、がアップされています。去年の四月からはじまったこの連載も、今回で最終回です。
http://keisobiblio.com/2017/09/27/furuya25/
この連載は、西川アサキさんが与えてくれた何回かの講義やレクチャーの場で話したことが元になっていますが、事前に用意したネタは途中で尽きてしまい(14回目までは、大雑把な構想が事前に一応ありましたが)、そこから後は、自分でもどこまでつづくのか分からないなかで、その都度の自分の関心や、新しい作品の発見などによって、手さぐりで書いていました。なんとなく、最後は「ピングドラム」でしめることになるだろうという感じはあったのですが、まさか、連載開始当時にはどちらかというと否定的だった新海誠の作品が、最後の章に食い込んでくるとは事前には予想できませんでした。その意味で、連載中の作品との出会いで最大だったのが『君の名は。』かもしれません。
この連載は本になる予定なので、その時はまた改めてよろしくお願いします。
●昨日の日記で触れた「BUMPY」(五島一浩)という作品についてなのだけど、「感覚に直にくる」タイプの作品は、その作用を、それを受け取る個体の特徴によって大きく変化させることになると思われる。つまり、「人それぞれ」ということになる。おそらくぼくは、もともともっている身体的ジャイロ・センサーが弱くて、その足りない平衡感覚を視覚によって補っている度合いが高いのだと思う。平衡感覚を得る時に視覚への依存度が高いから、視覚的に平衡感覚を狂わせられるようなものに触れると、かなり直に感覚の奥深くまで来る。でも、例えばフィギュアスケートでぐるぐる回転しても平気なような人は、「ちょっと空間が歪んでいる」程度の感想しかないのかもしれない。
多くの場合、作品というものは、普遍性、あるいは共同性を指向するので、「個体差をあぶりだす」ような作品は、作品としては、どちらかというと軽く見られがちだと思う。でもぼくは最近、「個体差をあぶりだす」ような装置に興味がある。ある人にとっては強烈に「くる」のに、別の人にとっては何も感じられないような経験を発生させる装置。そういう装置は、一見、人と人とを分断させるように思われるが、実は、わたしの身体とあなたの身体が分断されているのだという感覚を強く得ることで、分断の意識化が「別の身体」への想像力を駆動させるのではないかと思っている。
そのような装置は、一人称的な「人それぞれ(わたしだけの感覚)」と、三人称的な「人それぞれ(この装置に反応する人の割合、年齢・性別のばらつきなどをみることができる)」を、共に明らかにする。それによって、「瀧と三葉の入れ替わりを体験する」ことまではできなくても、「瀧と三葉の入れ替わりを生々しく想像する」ことを促すことはできるのではないか。