●ICCの「音楽と美術のあいだ」(大友良英)がすばらしかった(「quartets」)。展示場から出てきて時計を観たら一時間半以上なかに居たと知って、驚いた。ただ、ここで「すばらしい」というのは、この装置によって得られる経験としてすばらしいということで、美術作品として(あるいは、「音楽と美術のあいだ」というコンセプトとして)どうか、というのは別の話であるように思う。
ごく素朴な感想として、ここにあるのは「音楽」であり、そして(ある、視覚的効果を生む)テクノロジーのプレゼンテーションであって、「美術」ではない、とう感覚が生まれる。ここにある装置は、音楽を発生させる装置としてはすばらしいと思うが、美術作品と言えるようなものではない、と、何故感じるのだろうか。
テクノロジーに対する「ひねり」のようなものがない、という点が一つ考えられる。例えば、同じICCのオープンスペースに展示されている谷口暁彦の作品は、まず、iPadというテクノロジー(を感じさせる商品)があり、それに対する作家の(ひねりの利いた)はたらきかけがあり、そのはたらきかけがiPadから意外で新しい表情を引き出していて(作家からの働きかけ――たくらみやプロジェクト――があるだけでなく、iPadからの「応答」があり)、つまり、作家とテクノロジー的商品との関係によって、まさにその間から何かが生じていて、その間の何かを「作品」だと感じる。この時に作品は、感覚的な対象であるのと同時に思弁的な対象でもある。作品を観る者は、作品を味わうことと読むこととの両方を行っている。作品を読むことが味わうことにつながり、味わうことが読むこととなる。
一般に、作品を観る者はまず、作品の内部に没入し、その作品でなければ得られない、あるユニークな感覚的な質を経験する。しかしそれと同時に、そのような感覚的経験を生じさせる装置そのものを外側から眺め、それを一つの思考の対象として把握し、検討しようと試みる。前者が後者を促し、後者が前者を促すというような、異なる階層の行き来と循環のなかで、作品というものの経験が形作られる。そこで、感覚による思考の(再)編成、思考による感覚の(再)編成というハイブリッドが生まれる。感覚が考察を要請し、考察が感覚を要請する。つまり「作品」には、自らの装置の「内」に人を惹き入れて装置の生む感覚のユニークさを示そうとする作用と、装置そのものの「あり様」のユニークさをそれとして人に示そうとする作用との両方が(それが必然的に結びついた形としてあることが)必要だということになる。
(ここで、「音楽」と「美術」との間で、内側からの感覚的対象に対する時の本質的な違いはないと思われるのだが、外からの思弁的対象としての把握の仕方の「作法」が異なるようには思われる。何とかいうバンドの、何月何日のどこどこでのライブはすばらしかった、という時と、何とか美術館で、何年に行われた何々展はすばらしかった、という時の、「対象」の「事後的(再現的)な構成=言説化」のされ方の作法の違いというのが、意外に大きい気がする。)
「quartets」という作品は、そこで鳴っている音楽への感覚的な没入を促すとともに、そのような形で音楽が立ち上がり、形成されることそのものへの考察へと人を導くものでもあると思う。しかし、その、空間的配置や視覚的効果に関しては、音楽への没入に対する演出効果、あるいは音楽をよりよく聴かせるための補助的な役割という以上のものとは言えず、そのような装置(そのようなテクノロジー)そのものへの再検討へと人を促す(自己言及性が内蔵されている)というところにまでは行ってないので、美術作品としては弱いように思われた。
(だからこそ「音楽」に集中できてすばらしい、とも言える。つまり、美術作品として弱いということをもって、この作品から得られる経験のすばらしさを少しも否定するつもりはない。)
●あるテクノロジー的装置が新しい「経験」の形を可能にするという事を否定したり、軽くみたりするものではない。別にそれが「作品」と言えなくたって、「おー、すげー、こんなの初めて」という感覚を生み出すとすれば、ひとまずはそれを肯定していいのではないか、というか、積極的にそれに乗っかりたい、という気持ちがほくには強くある(「quartets」に関しては、音楽として「強い作品」だと思うから、ここで言っていることには当てはまらない。例えば渋谷慶一郎+池上高志「filmachine」とかが、そんな感じと言える)。
勿論、それは当然、資本とか権力のようなものに必然的に絡め取られてゆくものだろうから、そこに対する批判的検討はそれとしてなされなければならないし、そのような検討のなかで「作品」が生まれるということがあるのだと思うが、それはそれとして、まずは乗っかって、それに驚きたい。