●昨日につづいて、「東京新聞」に掲載されたレビューを転載します(ぼくが書いたものです)。四本分。

『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展―アメリカ合衆国が誇る印象派コレクションから』三菱一号館美術館
2015年2月7日〜5月24日


本展は、ワシントン・ナショナル・ギャラリー創始者の娘エイルサが、自宅に飾るために購入した作品を中心に構成されている。これらのコレクションの展示室は「小さなフランス絵画ギャラリー」呼ばれているそうだ。印象派、ポスト印象派ナビ派の画家たちの比較的小型の作品が集められている。
その性質上、本展は画家の代表作や歴史的に有名な作品が観られるという種類のものではない。印象派による革新から二十世紀絵画に至る絵画史の流れを追うことができるという展示でもない。ささやかな小品ばかりであるが、どの作品も粒ぞろいであり、絵を観ることの喜びや面白さを充分に堪能できる。小品だからこその、親密でリラックスした感覚があり、各々の画家の資質が見えてくる。
近代以降の絵画は、大きな革新や様々なイズムの台頭と交代によって特徴づけられる。しかし、そこにあるのは声高な主張や急進的な探求ばかりではない。ここでは、革新的な仕事をした画家の、成果というよりもその資源、革新の元となった感覚のきらめきのようなものが現れている作品に触れることができる。
例えば、ルノアール「猫を抱く女性」。猫を捉える描写のシャープな的確さに、柔らかなタッチで女性を描く画家の底にある、物事を捉える眼の鋭さが窺える。
マネの「芸術家の庭にいるジョージ・ムーア」。印象派の先駆者でありながら彼らとは距離を取り、形式的な革新と社会的な挑発を融合させる作風をもつ先鋭的な画家が、何気なくさらりと描いたようなこの作品からは、マティスに直結するような、感覚を活気づけ躍動する色彩の秘密が、既に確かに掴まれているのが筆者には感じられる。
ルドンによる二点の端正な風景画。初期には黒による怪奇な幻想を、晩年には柔らかく鮮やかな色彩による夢幻的な神話や花を描いた孤高の画家の手による、小さくてオーソドックスな風景画(ルドンはこれらを発表せずに手元に置き、死後発見されたという)。
時間が止まったように静謐で、視線をどこまでも吸い込む色彩をもつシンプルな風景を観ていると、どこといって幻想的なところのないブルターニュの風景が、それだけで充分に、どのルドンより強くルドン的な幻想として現れるのを感じる。
(「東京新聞」2015年4月10日 夕刊)

末永史尚「放課後リミックス」Maki Fine Arts
2015年01月10日〜02月01日
http://www.3331.jp/schedule/002704.html


一般に、作品を観ることには経験という側面と対象化という側面がある。経験は内的に湧き上がるものであり、対象化は外側からの限定と把握だ。これを、感じることと解読することと言い換えることもできる。出来事に没入して時を忘れることと、後から振り返って、あの時は何故あんなに楽しかったのか検討することの違い。
「この絵が好き」と思う時も、良い感覚を経験することと、その感覚が他ではない「この絵」から与えられたと判断することの二つが起こっている。
出来事の内にいる時、出来事と感覚は一体だが、後(外)から検討しようとする時は、出来事をそれ以外(日常)から切り離し「これ」だと限定(対象化)する必要がある。しかし、外側から枠づけ、対象化した途端、内側から経験された出来事の生々しさは変質する。とはいえ、対象化しなければ出来事は不定形のままで、それについて検討ができない。
末永は作品を、対象化の焦点であると同時に焦点を散らすものとして組み立てることで、内的経験と外的対象化のどちらにも決着せずに双方を行き来する装置とする。感じることが読むことを促し、読むことが感じることを豊かにし、そこで感じたことが新たな読みに……という循環をつくろうとする。
末永は、正方形のパネルに像を描き、それを古来のタングラムパズルの規則で分割する作品をつくる。タングラムとは、決まった形の組み合わせから人型や図形、文字などを組み立てるパズルだ。ここで、描かれた像は一度解体されて、パネルが別の像の形をつくるためのピースとなる。描かれた像と、フレームの形がつくる像とに、像が二重化される。
中学校だった建物の、教室だったスペースに展示された作品には、黒板、床の木目、習字など、学校が想起されるイメージが描かれるが、像は解体されている。パズルは人を解読へと促し、それを「黒板」だと対象化する。しかし枠自体が不思議な形をしているし、像というだけでなく、絵画としての質や感触をもつ。その感覚が、黒板という回答だけでは満足させない。
ここはギャラリーであるが学校である。パズルの答えは黒板であるが、不思議な形の絵画である。経験と対象化とはキャッチボールされ、場所や観者の記憶をも作品の経験に巻き込んでゆく。
(「東京新聞」2015年1月23日 夕刊)

「MOMATコレクション」(セザンヌ「大きな花束」)東京国立近代美術館
2014年11月11日〜2015年3月1日
http://archive.momat.go.jp/Honkan/permanent20141111.html


東京国立近代美術館セザンヌ晩年の絵「大きな花束」を購入し、お披露目展示を行っている。注目すべき作品だと思う。
場所や空間は、たんに物が置かれる空虚ではなく、物の背後にまわり、隠れながら物と一体化し、物がそこにあることを支える。例えば、飛ぶ鳥は空のなかで飛んでいるし、泳ぐ魚は海のなかで泳いでいる。背後にある場所(空・海)を抜きにして飛ぶ鳥や泳ぐ魚だけを取り出すことはできない。魚は空では泳げない。鳥は「飛ぶ」という行為によって鳥自身を含む空という場所を表現している。場所があるから物があり、物があるから場所がある。
晩年になるほど顕著だが、セザンヌの絵では空間と物とが切り離せない。「大きな花束」には、机の上の瓶とそこに挿された植物が描かれるが、画面の中心から放射状に広がる植物は、どこまでが茎や葉や花でどこからが背景なのか判然としない。それは全体として、中心から外へ広がる植物のある空間を表現する。
セザンヌは筆触を分かるように残す。筆触はいくつか集まって小さな色面となり、色面は画面全体に散らばって色調の流れや対比をつくり、流れや対比が空間と物を形作る。画面はたとえて言えば、文字、単語、文、文章という「異なる階層」が同時に意識されるような状態であり、文章の意味を追っていたつもりが文字の形に注目していたというような、意識する階層の移動が頻繁に起る。
筆触は他の全ての筆触との関係によって意味をもつので、小石の波紋が池全体に広がるように、将棋の一手が局面を変えるように、どの一筆のあり様も画面全体に影響する。将棋で駒の置かれない升目にも意味があるように、塗り残された部分も積極的な意味をもつ。物と背景とが切り離せないように、塗られた部分と塗られない部分も切り離せない。
さらに、知覚と記憶も切り離せない。セザンヌは同じモチーフを何枚も描く。モチーフは、今見えている物であり過去の記憶への通路でもある。今描いている絵は過去の絵の反復でもある。物と背景、図像と筆触、塗りと塗り残し、知覚と記憶、これらを混然と絡み合わせることで、「見えるものを見えさせている見えない何か」を引きずり出そうとしている。おそらく、それが自然の奥深さを表現するとセザンヌは考える。
(「東京新聞」2014年12月5日 夕刊)

『パランプセスト 記憶の重ね書き vol.4 小林耕平』ギャラリーαМ
2014年10月11日〜11月8日
http://gallery-alpham.com/history/vol198/


小林の作品は様々な要素の関係によって編まれている。テキスト、そこから導かれた課題と装置、課題を課せられ試行錯誤する人々、彼らに示唆を与える作者、それを撮影し録音する人、撮影場所、字幕、ビデオカメラ、プロジェクター、騒音。
他人の書いたテキストがまずある。小林はそれを元に六つの「無茶な課題」を設定し、課題を解くヒントとして「謎の装置」を制作する。その課題と装置を他人に課して、人がそれを解こうと試みる様を撮影し、画廊の壁に投射する。
だが、それら要素の関係は必ずしも明確ではない。例えば、眼鏡を通して物を見る時、眼鏡そのものは見ない。媒体はそのように透明化するもので、テキストは、人も何かの媒体となって透明人間になろうと促す。対して課題は、逆にメガネに色を塗るような方向性で、不可視の物に注目し、介在物の現前を目指す (透明人間を見つけるにはどうすればいいか等)。そして、課題を解こうと試行錯誤する人を撮影するカメラのアングルは、人の行為よりも撮影場所の方に興味があるかのように不安定だ。各要素それぞれ目的がバラバラにみえる。それは全体として、ちぐはぐでユーモラスな不条理劇のような様相を呈する。
課題を解くための道具とされる装置は、ホームセンターで売られているありふれた商品を奇妙なやり方で組み合わせただけものだ。「無茶な」課題の遂行は、解読困難な道具の使用法を「無理やりに」解読することからはじまる。それは、神秘性もオーラもない商品化された世界から隠された秘密を読み出そうとする努力とも言える。とるに足りない物たちが、その不可解な組み合わせ(関係性)の魅力によって別の意味を孕む。
道具とは何だろうか。例えばハサミは紙を切る目的をもつ道具だ。しかし、ハサミの先の尖りを利用して壁にめり込んだ画鋲を抜くのに使うことも出来る。これは、人がハサミの新たな用法を創造したとも言えるし、ハサミのもつ潜在性が人を誘発して行為を促したとも言える。人と道具の相互作用が別の目的、別の行為の創造を導くことがある。
観者は、課題を負った人たちの試行錯誤を映像として見る。そして彼らと同様、作品を構成する様々な要素間の不確定な関係性のなかを手さぐりで彷徨う。展示空間は観者それぞれの「用途の創造」を待つ謎の道具となる。
(「東京新聞」2014年10月31日 夕刊)