(もうちょっと、昨日のつづき)
●筆触を、「筆触」として対象化して取り出した時には既に、筆触において重要な何かは失われてしまうのかもしれない。完成された作品から事後的に見出される筆触と、それが描かれる時に(あるいは、今、まさに画面に筆が触れようとする、その直前に)捉えられている筆触とは、まったくの別物であるように思う。画面に筆が触れる直前、あるいは、今、まさに画面上を筆が動いているその時に、「筆触」を意識する画家はおそらくいないのではないか。その時、画家は別のものを見ているし、ある探求の大きな流れのなかにいる。それが、何かを探るための動きであろうと、ある確信に貫かれた動きであろうと、その動きは、「筆触としてあらわれるであろう効果」に向かっているのではない。例えばロバート・ライマンのような作品ですらも、それが描かれている時に問題になっているは筆触そのものではなく、キャンバスに絵具がひっかかってゆく感触であり、その感触のなかで筆が動いて行くリズムであり、そのリズムが微妙なブレをもちながらも、一定の幅のなかでキープされつづける、ある幅をもった時間の持続のあり様であるとおもわれる。ある筆触、その筆触によって形作られる形式や効果を獲得するために、特定の技術と、一定時間の集中と緊張とが要請されるのではなく、ある技術があり、一定時間持続されるある質をもった集中と緊張があって、その結果として、特定の質をもった筆触が生まれ、その集積としてのある形式が、効果が得られる。
筆触は、それ自体として多数の項の関係であり、それぞれの項で働くそれぞれの力の作用の、ある空白というか、隙間のような場所に滑り込むようにあらわれる。
●とはいえ、それが一度「筆触」として現れてしまえば、それはある表現の効果をもった表現の単位になる。この断絶は、制作者と鑑賞者の間にあるのではなく、描く前と、描いた後という時間のズレにあるものだ。ある筆触が置かれ、それに反応して、次の筆触が置かれる。制作の時間は、そのように、描いた後と描く前との中間の、どちらでもない時間のなかで進行する。だから制作は、既に描かれてしまった筆触を、決して、完全に描いた後の「筆触」としてしまわないで、次の筆触へ移行する途中のものとして、半事後・半事前へと留め置くような時間のなかでしか可能ではない。作品は、完成したから終るのではなく、自分が置いた筆触が、半事後から、完全な事後に移行してしまった時に、それ以上手が入らなくなって、終らざるを得なくなって終る。中間でありつづけることに耐えられなくなって、制作へと開かれた、半事後、半事前の持続が途切れてしまえば、その作品が充分な完成度、充分な強さを持っていなかったとしても、そこで終るしかない。あるいは、もう一度はじめからやり直すしかない。
だから、一日の制作を「切りのいいところ」でやめてはまずいのだ。制作途中の作品は、常に気持ち悪く、むずむずする。だがそれは、美味しいものを後回しにするような、目の前にニンジンをぶら下げられた馬のような、見えている結論を先延ばしにして迂回することではない(戦略的な迂回とか、そんなのは全然だめだと思う)。そんな余裕は、制作の時にはない。見えたものは速攻で取りにゆく。その先があるかないかは、その後にしか分からない。
●筆触によって探られるのは、あるいは、筆触が示すものは、筆触そのものではなく、筆触と筆触との隙間にあるものだ。例えばセザンヌの筆触は、筆触それ自体が問題なのではない。それはたんに筆跡である。重要なのは、ひとつひとつの筆触が、断絶しているのと同時に連続しているということであろう。ある筆触と別の筆触とが常に響き合い、参照し合い、ある筆触から別の筆触へと常に移行してゆく、その移り行きこそが重要で、勿論、響きには常に濁りがあり、移行には常にデコボコとした障害があり、偏りがあり、それらの全てが意識以前の感覚の粒立ちとしてあるイメージを裏から支える。そのような響きと濁り、移行と断絶(断絶のジャンプ)のざわめきを可能にしたのが、あのような筆触であったということだろう。そして、その響きと濁り、移行と断絶は、筆触がひとつひとつ確かめながら置かれることの「前」には存在しない。
●しかし、セザンヌにとって問題だったのは、セザンヌ独自の、他の画家とはまったくことなった絵画のシステム(筆触と筆触との関係のあり方)を構築することではなく、目の前にある「モチーフ」に従って絵を組み立てることだったはずなのだ。セザンヌの仕事が既に残されている以上、セザンヌのシステムを模倣することは、その精度を問わなければ、それほどは困難なことではないかもしれない。だがセザンヌは、セザンヌ的表象システムをつくろうとしたのではなく、目の前にあるモチーフに突きつけられたリアリティを絵画として実現するために、自分に可能な最も良いやり方を追求していたに過ぎないだろう。たまたま、セザンヌという個体にはああするより他にやり方がなかった。そういうものとして、あの筆触に辿り着いた。そして、それがたまたま、すごいところに突き当たってしまったということだろう。
セザンヌが捉えたものの凄さは、セザンヌ的なシステムの内部にあるのではない。しかし、それはセザンヌ的なシステムによってしか捉えられないものだった。それは、切り離されているのと同時に、切り離せない。システムがなければイメージは把捉できない。しかし、イメージはシステムの内部にはない。システムのどこをどう分析しても、イメージの在処は特定出来ないだろう。しかし、イメージは、システムによって把捉されてはじめて(事後的に)それとして顕在化される。とはいえ、そもそも、把捉されるべき(未だ見えていない)イメージへの予感や信仰や恐怖が(事前に)なければ、未知のシステムへの探求そのものが成り立たない。
●幽霊は、物質的な痕跡がなければ発生-知覚できないが、そもそも、事前に幽霊の存在への予感や信仰や恐怖がなければ、物質は幽霊(かたち-イメージ)を生まない。