●人形町のVISION`Sで、「組立」(http://kumitate.org/)および、対話企画「生き残る(ための)芸術」。一部と二部あわせると午後二時から七時までで、座っているだけで相当疲れる。その後、打ち上げで十一時過ぎまで。
イベントの内容は、充実していたし、様々な形での実践報告みたいな第一部があり、原理的な思索、検討としての第二部があるという形も納得の出来るものだった。定型的な社交の言葉ということではなく。と同時に、ぼくとしては、シンポジウムみたいな形式において「話す(聞く)」ことの歯がゆさのようなものもずっと感じていた。
例えばそれは、境澤邦泰によって語られた精緻なセザンヌの分析と、それが語られる同じ場に展示してある、それを語っている本人の作品とが、一体どのような関係にあるのか、というところにまで、シンポジウムのような形式では切り込めないのではないか、というようなことだ。境澤さんのセザンヌの分析は、それ自体としてとても面白いもので、それがそれとして全く独立して語られるのなら、たんにそれを聞けばよい。しかしそれが、それを語る人のつくった作品が展示されている展覧会のイベントとして語られる時、そこにはどうしてもある主の関係(というか関係無くみえてしまう)という事態が成立してしまう。
ぶっちゃけて言えば、境澤さんの作品はセザンヌと似ていない。それは表面上の類似ということだけでなく、境澤さんがセザンヌのシステムとして記述しているシステムと、セザンヌを研究し、セザンヌからの刺激によって制作しているらしい境澤さんの作品の実践との繋がりが、よく見えないという事態が生まれてしまうということだ。実際、境澤さんの作品を制御する「絵画的感性」はセザンヌ的であるというより、オランダのハーグ派や、あるいはクールベの絵に見られる空の表現、現代に近いところではブライス・マーデンなどの作品に近いものであるように感じられる。キャンバスの白を光源とし、その上に半透明な油絵の具が微妙な振動をもって何層も重ねられ、その重たい絵の具の層の奥から、光源の光がほうっと漏れ出てくるような感じ。それは、重たく空を塞ぐ雲から、太陽の光が滲み出てくる空のような感覚。方向性をもつ太陽光が、雲に遮断されることによって、雲のなかに均等に拡がり、乱反射し、弱く微かでありながら、空全体が発光しているような感じられるようになる、あの感じ。重たい雲が、かえって光の純粋性を感じさせるように、油絵の具の重たい物質感が、そこから漏れ出る光の非物質性を際立たせる、というような。これは、近代的な西洋絵画の感性としてはきわめてオーソドックスなものではあるが、セザンヌの実践を制御するものとは食い違うように思われる。
ぼくは、この食い違いを批判しようとしているのではない。むしろ、この食い違いこそが面白いのだし、この食い違いのなかにこそ、画家としての境澤さんにとっての重要な何かがあるように感じられる。しかし、シンポジウムのような、アカデミズム的舞台設定において語られる、アカデミズム的に制御された言語は、そこに至る前に膨大な前提や迂回を必要とし、なかなかそこには達せないというもどかしさがある。もっと野蛮に、すばっと行けないのか、と。
これは、アカデミズムを批判しているのではまったくない(前提や迂回には重要な意味があるのは当然だ)。そうではなく、それとは別の言い方、語り方、場の設定によってこそ、上手く言語化できる何かがあるのではないか、ということだ。これは、自分自身の言語能力の問題としても、常に感じているもどかしさだ。一体、アカデミズムを住処とするわけではない我々が、どこまで、そこで語られる言語の流儀に従う必要があるのだろうか。真摯な研究者の研究を読み、ある程度理解し、それを自らの実践の糧と出来る程度には、その言語を習得する必要はあると思う。しかし、自らがその言語をもって「語る」ことが出来る必要などないのではないか。画家であっても人間である以上、言語をもって人に語る必要があるのだが、その時に、半端にアカデミズム的だったり、半端に批評的だったりする必要などなく、もっと違うやり方があるのではないか。この感じは、今のぼくを覆っている「気分」として、強くある。
繰りかえすが、これはアカデミズムとか批評とかを否定しているわけではない。そういうものは、そういうものとして、ちゃんとしていなければいけないと思う。しかし、今のぼくにとって必要なのは、それとは別の語り方であり、そのような語り方でしか言えない(聞けない)何かの方なのだ。実際、対話企画の後の打ち上げの場での話は、非常に充実したものだったと思う。あんなに充実した「打ち上げ」ははじめてだ、と思うくらいに。しかしそれが実現したのは、それがクローズドな、「ここだけの話」であったということと切り離せない。
●とはいえ、佐藤雄一の発表は、ぼくにとってたいへんに刺激的なものだった。今までそんなこと考えたことがなかった、という虚を突かれるようなものであり、同時に、それによって、すっ、と、先が見えたような気になることが出来るものだった。この点に関して、「組立」の冊子に載っている論考をじっくり読んで、今後も考えていきたいと思った(佐藤さんの話もまた、閉じられたコミュニケーションのなかで起こる淘汰によって、事後的に「(抵抗体としての)物質性」が創発される可能性、についての話だった)。