●バタバタ動いているというわけではないので忙しいという言い方は適当ではないかもしれないが、十一月の終わり頃からここ三週間くらいは、ぼくの処理能力としていっぱいいっぱいくらいの用事を抱えてあっぷあっぷな感じだったのが、ようやくそれらを期限までに終わらせられそうな目処がついてきた。あくまで目処だけど。
●それで少し余裕が出来たので、清水高志さんの「カイエ・ソバージュ1」読書メモなどを読んでいた。
http://lizliz.tea-nifty.com/mko/2011/12/post-2f0a.html
以下は、メモに対する直接的な言及ではないけど、それを読んで、一昨日書いた抽象性の話をもう少し進めてみようと思った。
●一昨日の日記で、アナロジーに対してメタファーを対比させたけど、普通は、メタファー(隠喩)はメトニミー(換喩)と対比される。清水さんのノートの(8)にあるように、「白雪姫」が隠喩なら「赤ずきん」が換喩。清水さんのノートでは、神話が、隠喩的(分類知的)な仲介と具体物による換喩的仲介を順繰りに交差させながら様々な要素をつないでゆく様を中沢新一が分析している点が指摘されている。だがぼくはここから、ちょっと違うことを考えたい。
●ぼくが一昨日書いた対比はより正確には、アナロジーと比喩(隠喩も換喩も)を対比させるべきだった。隠喩が、「雪」という一つのイメージによって一人のお姫様の全体性を表現しているのと同様、換喩も、赤ずきんという特徴的な一部分によって一人の少女の全体性を表現している。一つのイメージが全体を代表する。対して、ある関係が別の関係を表現している(関係している)という時、それは両方とも全体であろう。ぼくにはどうも全体が全体に対してとる関係が気になるらしい。
赤ずきんという物語の全体と、空襲という出来事の全体が、「ずきん」という具体物を媒介にして関係する(接続される)という時、それは二つの総体が一つの具体的な(換喩的)媒介で繋がっていると言える。あるいはあるお姫様の全体と大福もちとが「雪」というイメージで繋がる(隠喩的接続)とか。だが例えば、あるメロディが、それを聞く人に特定の感覚を惹起するという時、メロディというひと塊りと感情というひと塊りとが、直接的に響いているとは言えないだろうか。
●それではちょっと話が単純すぎるので、別の例。ぼくは十代の時ずっと、セザンヌのどこがいいのかまったく分からなかった。色はすっきりしないで濁っているし、形はぎくしゃくしてかっこ悪いし、いかにも時代遅れの重ったるい絵としか思えなかった。大学に入ってから、突然の休講でぽっかり空いた時間、図書室で色んな画集をパラパラ眺めていて、なんとなくセザンヌの水彩の画集を開いたら、その時、あっと思って、セザンヌが分かった。いや、今でも「分かった」とはとても言えないけど、その時、セザンヌの絵がはじめて、セザンヌの絵としか言えない感覚を伴ったものとして目に入ってきた。みんながセザンヌと言っているのは、これのことだったのか、と思った。
はじめて観た絵ではなかったし、その画集の発色が特に優れていた(正確だった)ということでもない。今まで何度も観てきたもののなかから、今まで見えなかったある関係がばーっと浮き上がってきた。それは、そこにリンゴが描かれているとか山が描かれているとかいうこととは別のことで、そこに置かれているタッチの総体が作り出す関係が、一つの感覚として、いや、幾つもの感覚がつくる立体的な感覚として、一挙に頭に入ってきた。この時、ぼくの頭のなかに埋め込まれていた幾つかの感覚の複合と、セザンヌの絵の複数のタッチがつくりだす関係との間に、アナロジーとしての回路が開いた、と言うと、アナロジーという言葉を拡大解釈しすぎだろうか。
●こういうことは、自分で絵を描いている時にも生じる。あるタッチを最初に置く。そのタッチに対し、ある関係をもった二つ目のタッチを置く。そして、その二つのタッチの作り出す関係に対して三つ目のタッチを置く。しかし制作は均質には進まない。そのようにして制作をつづけているうちに、ある瞬間に、それまで自分が追っかけていた関係とは別の(もっと複雑な)関係が、うわっと立ち上がってくる時がある。一つの総体としか言えない立体的な何かが生まれる(逆に、一つのタッチによって今まで積み上げてきた関係がすべて駄目になってしまうこともあるけど)。
一つ目のタッチと二つ目のタッチを繋ぐもの、あるいは最初の二つのタッチと三つ目のタッチを繋ぐものは、例えば(『カイエ・ソバージュ1』で中沢新一が書いている)神話が様々な(離れていたり、適切な距離になかったりする)要素を仲介によって繋いでゆくことと似ているかもしれない。しかし、仲介によって次々に繋がれた諸部分が、ある総体というしかないひと塊りの立体的関係(それは「一」であると同時に多数のものの配置でもあるもの)としてあらわれる、質的飛躍が訪れる瞬間がある。それは図像でもイメージでも意味でもなく、ある一つの領土(風土?)的な何かのようなもの(気づいたら複雑な食物連鎖が成立してしまっていた、みたいな)。ぼくが抽象性と言う時に言いたいのは、そういうイメージ。ぼくにとって「作品」とは、そのような抽象性をもつひと塊りのことなのだと思う。
●つまり、個々の要素を繋いでゆく原理や技法とはまた別に、繋げられたひとまとまりによって開かれるある固有のひろがりのようなものがある。
●そのような抽象性が、例えばセザンヌの絵から感じられる「セザンヌ」としか言いようのない何かのことだろう。それは必ずしも、セザンヌの絵からだけ感じられるものではない。ある風景を、セザンヌみたいだと思うこともある。その時、セザンヌが風景を説明しているのでも風景がセザンヌを説明しているのでもないという形でセザンヌと風景が関係する。そしてそれは、セザンヌの描いた風景と似ているとか似ていないとかとは別の問題となる。その時、その二つのものを関係させている媒介は抽象性というしかない何かで、隠喩的なものでも換喩的なものでもないのではないか。
あるいは、ぼくにはフェルメールの絵から感じられる光とモンドリアンの絵から感じられる光が同質であるように見える(写真が直接光を捉えるのと違って、絵画は抽象としてしか光を捉えられないと、ぼくは思う、絵画における光は、色と色との関係によって生じる抽象なのだ、と思う)。それは、フェルメールの絵から感じられるフェルメールとしか言えない何かと、モンドリアンの絵から感じられるモンドリアンとしか言えない何かが「似ている」のではなくて、その二つの個別の抽象性、二つの個別の感覚の立体的複合関係の間に、アナロジーによる関係(共鳴)が成立するということではないかと思う。そしてそれは、フェルメールの絵とモンドリアンの絵とが同じくらい強い(良い)ということとは、また別の問題としてある。
●はじめて自転車に乗れるようになった時という陳腐な例えを考えてみる。まだ乗れるようになる前と、乗れるようになった後の、二つの映像を見比べてみるとする。こっちではまだ腰の重心がブレているけど、こっちでは重心がちゃんと定まっている、だから倒れずに漕ぐことが出来るのだ、と指摘できるとする。ここで重心というのが抽象性であり、それを支えているのが、身体じゅうの筋肉の力の微調整だろう。重心は、諸微調整間の関係の総体を、「一つの表現」にしたものだと言える。しかし重心は隠喩でも換喩でもない。重心は、身体の隅々までの諸微調整が上手くいっている限り、「存在(実在)」する。逆に、重心が存在することで、諸微調整が滑らかに協働できる(重心を発見-創造するまでは苦労する)。重心と諸微調整は、同時に、同等にしか成り立たない(いや、諸微調整間の協働が重心を創造するのだから、諸微調整が半歩先行すると言うべきか)。
さらに、自転車に乗る時に成立する重心という抽象性と、フライパンのなかの卵焼きをひっくり返す時に成立する(例えば)手首の軸という抽象性が共振して、「卵焼きをひっくりかえす感じでやったら自転車に乗れた」とか、そういうことが起こると面白い。そこが比喩とは違う(とはいえ、比喩を否定しているのではない)。ある行為(というひとまとまり)が別の行為(ひとまとまり)を巻き込むように引き出してくる。そこに、新たな習慣を創造するためのアナロジーの力があるのではないか。
●いや、でもこれはどうなんだろうか。自転車に乗るという行為に、本当に「一つの重心」など成り立つのだろうか。むしろ重心を滑らせて、重心を作らないで常にそれを先送りにするとか、そんな感じなのではないか。ちょっと分かり易い話にしすぎているかも。つまり「重心」が比喩になっちゃってるかも。
●『カイエ・ソバージュ1』で中沢新一は、神話がまるで「ボレロ」のように自身の原理(神話の思考の原理)に従って自動的に変奏されてゆくみたいな感じで書き、もう一方で、神話は常に現実との関係のなかにあり、現実の社会の変化によって書き変えられるとも書いている。これは、一方に自律した自動生成装置としての神話システムがあり、もう一方に、社会の要請に従属する神話システムがあるというのではなく、社会の変化に合わせて、それに足りないところを補う形で変化してゆくのが神話的思考の力だということを意味している。つまり、神話が現実をかえてゆくポジティブな力と、現実によって神話が書き変えられてゆくネガティブな力と両者のせめぎ合いがあるということではなくて、現実は決してそうではないが、そうであるべき社会の「対称性」を独自の論理によって「可能性」として常に示すのが神話だ、と。神話が、人類最古の「哲学」として示されているのもこのような性格のためではないか。
神話はこの本では「宗教」とは対比的に描かれている。熱狂を求め、具体的な現実の対応物を見出さなくとも「純粋な思考」を組み立ててゆくことが可能となる宗教とは異なり、神話は常に理性的であり(熱狂的ではなく)、現実的な対応物という媒介によって思考する、と(現実と、つかず離れず)。だとすれば、ぼくが書いてきた「抽象性」とは、中沢新一の言う神話よりも宗教の方に近いと言うるのかもしれない。
だけど、例えばセザンヌの絵の無数のタッチが作り出す関係が、リンゴや山を描いているということとは別の次元を成立させているとしても、セザンヌは、リンゴや山を描くことを通してそこへ至ったのだし、モンドリアンでさえ、オランダの光という具体的な対象物とは切れていない(とぼくは思う)。具体的な対象物の配置によって組み立てられたある抽象性と、別の、具体的対象物による別の抽象性とが、アナロジーとして共鳴し、それによって配置が動いてゆくということは、「純粋な思考」とも違うし、(中沢新一が批判する)バーチャルとも違うのでないかと思う。
●この日記を書いている途中に強烈なデジャブに襲われた。まったくおんなじことを、まったくおんなじ状況で書いていたことが過去にあったような。今、目の前にぶら下がっている洗濯物の緑のトレーナーまで正確に同じだったような。