国立新美術館セザンヌ展、二回目。休館日に入場できる協賛関係者向けのチケットで入場。入場した時は思っていたより人が多くて普通の日とあまり変わらないかと思ったけど、時間帯によってはかなり空いたのでじっくり観ることが出来た。適当に休みながら四時間以上居座った。隅から隅までじっくり観たというより、特定の作品の間を延々ぐるぐるまわっていた感じ。
●一つ、ぼくにとって今までもっていたセザンヌに対するイメージが修正されるような発見があった。それは1899年の重要性。この展覧会で観られる作品だけから判断すると、セザンヌはこの年に油絵の具の半透明性を生かす技術を身につけた。そしてそれによって、作品の複雑性の度合いが飛躍的に増すとともに、色彩の使われ方が大きく変化する。今日ぼくは、1899年から1906年まで、セザンヌ最後の8年間の作品ばかりをずっと観ていた。この時期の作品を観てしまうと、他の時期のセザンヌが(セザンヌでさえ!)やや退屈に感じられてしまうほど、最後の8年の作品はすばらしい。勿論、今までもセザンヌは最晩年が最もすばらしいとは思っていたけど、その理由を発見したというか、絵の具の使い方がはっきり変わる時期があったのだ(これはあくまでこの展覧会で観られる作品だけから判断したものだから、正確には多少時期のズレはあるかもしれない。絵の具の半透明性の使い方については図版では判断できないから、画集で確認することは出来ない)。
●1898年以前のセザンヌのタッチは基本的に不透明な絵の具による。つまり、上から塗られる絵の具は下の層を遮蔽する。あるいは、半透明な絵の具のタッチが使用される時は、タッチとタッチがエッジで重なるところはあっても、上の層から下の層が透けて見えるようには層としては重ねられない(例えば1888-90年の「水の反映」)。あるいは、重ねられたとしても、くすんでしまう(1893年頃の「フォンテーヌ・ブローの岩)。だから、タッチの平面的な分布が主な問題となる。勿論、油絵の具の性質上、厚く塗られた絵の具は下の層を完全に隠すのではなく、滲み出すような重層的な効果は生む。しかし、厚塗り的な色彩の重層性とは別の出来事が、1899年以降の作品にはみられるようになる。
●一番分かりやすいのは、1893年頃に制作された「フォンテーヌ・ブローの岩」と1900-4年に制作された「ビベミュスの岩と枝」が並んで展示されているところ。「フォンテーヌ…」の木の葉の部分は、薄塗りの暗い半透明の緑と茶色が重ねられている。つまりここでは半透明の多層的なタッチが試みられてはいる。しかしこの絵では暗い部分はたんに暗く、くすんでいる。対して、隣にある「ビベミュス…」は、全体として暗い茶色と暗い緑が支配的だが、にも関わらず全体が輝くようで、しかも澄んで見える。上に塗られた暗くくすんだ半透明の色の層の下に、明るく澄んだ層が隠されている。おそらく、この澄んだ調子を支えているのは潜在的な青なのだと思う(これはあくまで色彩の半透明性についての話で、必ずしも「ビべミュス…」に比べ「フォンテーヌ…」が作品として劣っていると言っているわけではない)。
そしてだからこそ、この作品は図録の図版では、全体にぼやけたような色で、まったく別の作品のようになっている。この半透明の多層性の効果は図版では再現できない。セザンヌ最後の8年間の作品は、それ以前と色彩の質が大きく異なっているが、それは実物を観ないと分からないような変化なのだ。例えば庭師ヴァリエの薄塗りの方の絵は、図版で観ると中途半端に見え、未完成であるかのようにも感じられるが、実物を観るとそのあまりの鮮やかさにたじろぐ。この状態こそ完璧で、未完成なんてとんでもないという感じ。
「フォンテーヌ…」と「ビベミュス…」との中間にあるのが1895-7年に製作された「大きな松の木と赤い大地」だ。ここでも主に植物の緑の部分に絵の具の半透明性かを生かすことが試みられていて、「フォンテーヌ…」よりはそれに成功しているように見えるが、この作品では半透明性が用いられる部分と不透明性が用いられる部分とが分離している印象を受ける。
●正確ではないかもしれないけど、1899年という年を変化の年として挙げたのは、その年に「りんごとオレンジ」と「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像」が描かれているから。例えば、同じ静物画であっても、「りんごとナプキン」(1879-80年)ならば図版で観ても(完璧とは言えないにしても)、それがどういう絵だか勘違いすることはあまりないと思うけど、「りんごとオレンジ」は、図版だけで理解しようとすると勘違いしてしまう。この絵全体を支配する暗くて澄んだ茶系の透明感から鮮やかな赤やオレンジが浮かび上がってくる様を、図版は決してとらえられない。だから勘違いして、この絵の構図や構成にばかり目がいってしまう(勿論、この絵の空間の構成はすごく過激で、「アヴィニョンの娘たち」よりずって大胆だとさえ思うけど)。それに、これ以前のセザンヌに、こんなに鮮やかな赤はおそらく存在しない(この赤は半透明な茶色があってはじめて出現する)。だから、1899年以前のセザンヌの実物だけを観て知っていて、その経験から、「りんごとオレンジ」の図版を観て「こんな感じだろう」と予測すると、必ず間違うと思う。ここで色彩の質が激変している。
「ヴォラールの肖像」も、暗く沈んだ茶色が冴え冴えと輝いているような色だ。この絵でも潜在的な青がすごく効いている。この色のあらわれ方をどう描写したらよいのかわからない。また、色だけでなく、下の層のタッチと上の層のタッチがともに確認できるから、タッチとタッチとの相互干渉がそれ以前の作品よりもずっと複雑になっている。
あと、この絵と厚塗りの方の庭師ヴァリエの絵の、輪郭線の不思議なありようは何なのだろうか。ある程度離れた距離で観ると、体の量感と厚みを感じるのだが、すこし近づくとふっと厚みが消えて体の部分が平坦に見えるようになり、むしろ穴のようにさえ見える。そして、今まで形と一体化していた輪郭線が形から浮いてただの切れ切れの「線」に見えるようになる。今までしっかりとした厚みと重みをもっていた体の部分が空虚になり、顔や手がぐっと浮きだしてくる。
これはおそらく、この時期のセザンヌの色彩が、そもそも「形」をもつものにはあり得ない、漂い明滅する、純粋に色彩的な色彩なのに、それがかろうじてぎりぎりのところで「形」に着地していることからくるのではないか(頼りない切れ切れの輪郭線でのみ、色が形に着地しているかのようだ)。セザンヌの人物画は、風景や静物と違って、とても強い求心性(中枢性)をもち、にもかかわらずその求心性の中心である身体が、ある距離で突如空虚になる。重厚に充実していることと空であることが両立している。この感じもやはり、図版では決してわからない。図版で観ると「ヴォラールの肖像」も「座る農夫」(1897年頃)も、基本的には同じ傾向の作品に見えてしまう。しかしここに、爆発的といってもいい飛躍があると思う。
そして、最後に置かれた二枚の絵、1902年のサント=ヴィクトワールと1900-4年の「5人の水浴の男たち」については、もっともらしいことが何も言えない。ただ、口をぽかんと開けて、それを浴びるように観るしかない。水浴の男たちなんてすごくちっちゃな絵なのだが、そこに含まれるものの複雑さと膨大さと強さに圧倒されるしかない感じ。
セザンヌの最後の8年の色彩は、ぼくが今まで知っていたセザンヌが、まだセザンヌの序の口にすぎなかったのだと思い知らされるようなものだった。図版を観て「絵を観た」と思っていると間違うのだなあと思い知ったというのか(ただ、サント=ヴィクトワールと水浴図については半透明の多層性の度合いは少ないから、図版でもある程度は理解できると思われる、そこには静物画や人物画とはちょっと違う何かがある気がする、それでも色の質は、1898年以前のサント=ヴィクトワールや水浴図とは違っているように思う)。今日はひたすら、セザンヌ最後の8年間の色彩に浸っていた。
●最後のところにセザンヌのアトリエが再現されているのだが、アトリエの再現というより、セザンヌのアトリエに実際にあったものがここにあるということに興奮する。セザンヌのステッキとか見ると興奮が抑えられない。鏡がかけてあるのだけど、もし本当にセザンヌのアトリエにあった鏡であれば、ゼザンヌを映した鏡に、今、自分も映ったのだ、と思ってクラクラした。