●この暖かさにからだがついていかない。頭の奥がしびれるようにぼんやりする。一つ隣の駅ちかくにあるツタヤまでDVDを返しに出かける。閉店になって既に解体工事がはじまっている近所のツタヤの脇を通って、平日の昼間でもたくさんの花見客でにぎわっている公園を通り抜けて、歩いてゆく。
●最近、胡散臭さというものがいかに重要であるのかについて考えている。胡散臭さを排そうとすることが、いかに物事を貧しくさせ、硬直化させるか。あるいは、権威主義化させ、純粋主義化させるか、ということ。そしておそらく、リアルというのは、「胡散臭さの領域」とのあやうい関係のなかからしか掴み出せないとも思う。でもそれは、胡散臭いものを正当化するということではない(そんなことしたら胡散臭くなくなってしまう)。あくまで、「胡散臭さの領域」との「あやうい関係」が重要なのだ。