●今日もパソコンは起動した。まったく起動しなかったあの一日はなんだったのか。このまま持ち直してくれるのかも、と考えるのは甘い見通しなのだろうか。
●引用、メモ。清水高志「《意味の場》と神話」(「現代思想」10月臨時増刊号 特集マルクス・ガブリエル)より。
●存在=意味の場での現象
《マルクス・ガブリエルは、その「新しい実在論」において、「存在すること」を「なんらかの《意味の場》Sinnfeldに現象すること」であると規定している。(…)彼によると、無限に多くのものが、なんらかの《意味の場》において現象しており、われわれが毎日経験しているのもこうした《意味の場》と《意味の場》の絶え間ない切り替わりであるという。また、この《意味の場》どうしは、多種多様に重なったり、入れ子状になったり、あるいはまったく互いに接することがなかったりする。しかも《意味の場》じたいも、他のなんらかの《意味の場》において現象するというのである。》
●世界は存在しない。
《(…)ガブリエルが重視しているのは、あくまで《意味の場》に包摂されて現れ、存在するようになるさまざまな現象のほうである。たとえば《意味の場》どうしの包摂のプロセスのメタ的構造を、あらかじめ語るようなことは、むしろ慎まなければならない。というのも、それらの《意味の場》の全体を最終的に包摂するもの、つまり《意味の場》の外部は、彼によるともはやどこにも現象していないものとしてしか、あり得ないからである。》
《すべての《意味の場》が「包摂されるもの」であるが、「すべてを包摂するもの」としての《意味の場》は存在しない》。
●意味の場の実在論(新しい実在論)と、ポストモダン的相対主義(構築主義)との違い。外部と内部。
《(…)なんらかの「現象の現れ」が限界づけられ相対化されるということは、あらゆる現象を包摂するものとして「唯一の世界」が前提されている場合にも、やはり起こりうる。この場合、それらの「現象の現れ」は、全体としての「唯一の世界」が限定された一部でしかないものとして、相対化されることになるだろう。---このとき、実質的には、世界の全体がすっかり現れるわけではないので、現象として現れてくるものはすべて相対的なものでしかないという結論が導かれることになる。》
《ここで、ガブリエルが挙げるイタリアのヴェズーヴィオ山の例を想起することにしよう。この山にはソレントから眺めたパースペクティヴと、ナポリから眺めた別のパースペクティヴがある。しかしそれはらいずれもパースペクティヴでしかないとするのが、構築主義者の立場である。そしてこのとき、実在というものがあるとすれば、お互いに相対化しあうパースペクティヴの「外部」においてであると、構築主義者は考えるわけだ。》
《これに対しガブリエルは、この山の多様な「現れ方」そのものがめいめい「実在」であるとする。「実在」が、相対化プロセスの「外部」に置かれるか、むしろ限定された「内部」にこそ置かれるかという点が、ここでは大きな転換点になっているのである。》
《実在的対象を、主客の二項的関係の「外部」にはなく、あえてそうした二項関係を包摂する第三項の「内部」において捉えるというアプローチこそが、今世紀の実在論が辿り着いたあらたな方法論なのだ。》
●ハーマンとガブリエル
《《意味の場》と《意味の場》の包摂プロセスの「外部」に「実在」が置かれるという状態、内界と外界の二元性そのものを否定することがガブリエルの議論においてはまず求められていた。》
《(…)こうした無化は、彼(ハーマン)の場合内的関係に置かれていることと、外的関係に置かれていることの二重性として捉えられている。つまり対象(オブジェクト)は、、一方的に内的関係(諸要素の働き)に還元されるわけでもなく、ただ外的関係に置かれているわけでもない状況にあってこそ、実在的対象たりうるとされるのだ。》
《内的関係にも外的関係にも還元されない、それらのどちらの要素の変動にも持ちこたえるいわばアソビの部分が、ハーマンにとっての対象(オブジェクト)である。》
《(ハーマン「四方対象」からの引用)私による木の知覚は、一つの知覚である以上、明らかに統一されている。さらにこの知覚は、孤立した諸部分へ還元不能な新しい何かでもある。というのは、私も木も、単独で木の知覚を生じさせるものではないからである。》
《「私と木の関係」が第三項としての対象を生み出すとき、この第三項としての対象は、それを構成する「私」や「木」という孤立した諸要素とのあいだにそれが持つ、内的関係に還元されるわけではない。一方で、「私」から「木」へ、「木」から「私」への関係は、それだけでは外的な関係であって、お互いにその都度ある種の表層を見せているに過ぎない。》
《内界と外界、主体と対象が二項的に捉えられている場合、そこで外界とか対象とか見做されているものは、実在的な対象ではない、ということを語るために、ハーマンは実在的対象、感覚的対象という二種の対象の区別を案出した。包摂すること(外)と包摂されること(内)の二重性という状況に置かれることで、主体と二項的に対置されていた対象---メイヤスー風に言えば相関的な対象でしかないもの---とは異なる、実在的な対象がはじめて見出される。》
●脱去する実在的対象は、「信憑」されている。
《こうした実在的対象は、お互いに脱去しており、汲み尽くし得ないものとして存在しているが、重要なのは、地震でも起こらないかぎり、われわれが大地がそこに立っていられるものであることを疑わないように、それらが信憑されているということである。》
《しばしば誤解されるのとは異なり、脱去したものとしての実在的対象は、主体による認識を超えた《外的な脅威》なのではなく、むしろわれわれが十分に知覚したり理解したりする以前に、経験的かつ内的に信頼されているものたちなのだ。われわれは日々の行為において、そられの対象を知覚することなく、しかも識っている。》
《(…)シェリングとへーゲルの思想のきわどい対立を援用しながら、ガブリエルが「神話」という言葉で表現しているものが、まさにこうした種類の信頼なのだ。》
●「唯一の世界(存在論的一元論)」という概念へと至る思考の形
《われわれがある物について、それが存在するというとき、それはなんらかの規定された対象を指示していると、この書物(「神話・狂気・哄笑」)でガブリエルは言う。われわれはたとえ捉えがたいものであっても、「無規定的なもの」としてその物に対象領域を割り振ったうえで、当たり前に理解しているというのである。この対象領域は、最初の物からすればそれを規定した高階の領域であると言えるが、しかし高階領域どうしもお互いに区別され、それらを規定するさらなる高階領域を生み出さざるを得ない。こうした後退的な重層が必然的に停止するのは、一般にすべての領域の領域、つまり「世界」という概念においてである、と彼は指摘する。そして、ひとたびこうした思考に陥ると、そこからは「世界はただ一つしかない」という存在論的一元論(ontological monism)が、導かれざるを得なくなってしまう。》
《存在はなんらかの規定や思考のうちでみずからを「表現する」が、こうして表現されたものが幾重にも重層していくことが、「唯一の世界」を成りたたせる、もしくは説明すると考えられているのだ。》
《ここで想定されているのは(…)マトリョーシカ人形の入れ子構造のような、一方向的な包摂プロセスなのだ。---また、最大の包摂者に至る、この単一のプロセスにおいて第三項の役割を果たしているのも、実質的には同じ否定的な働きである。存在と現象は、二重化されつつ、同時にどこまでも分離されている。「存在は存在と現象への分離の固有名になる」とガブリエルが述べている通りである。》
●しかし、「全領域の領域(唯一の世界)」もまた、「全領域の領域」の領域において現れるしかない。反省(メタ領域)もまた、反省のための前提領域(思惟以前の存在=神話)を必要とする。全体構造は先取りできない。
《ガブリエルが指摘するように、シェリングによるへーゲルの批判も、もっぱら後者が全体構造を先取りして語っているところに向けられている。シェリングは、へーゲルが語る反省を、「思惟依然の存在」unvordenkliches seyrから、むしろ二次的に生まれたものであると主張するのだ。》
《(「神話・狂気・哄笑」からの引用)シェリング、ハイデガー、ウィトゲンシュタインが同意しているのは、反省は不可避的にみずからについての一連の有限な、言説的表現となり、その結果、架空の枠組み、つまり神話を生み出すということである。これらの枠組みは通常反省されることがなく、また完全に反省されることもできない。つまり、そのような総体化をおこなう反省を目指すいかなる試みも遅かれ早かれわれわれを捉えて離さないことになるであろう、もう一つの神話、別の想像物、もう一つのイメージを、生み出してしまう。》
●思惟以前の領域=神話こそが「実在」であり、対象(オブジェクト)である。ここで、地(領域)=外が、図(オブジェクト)=内へと反転している。
《全体構造、メタ構造を先回りして語ることへの批判は、シェリングにおいてはひるがえって、「思惟以前にある存在」としての「ある領域内の一対象」こそが、まさに「実存」であるという、端的な肯定へとつながっていく。思惟や反省以前に経験されているこうした「実在」こそが、彼によって「神話」と呼ばれるものなのである。》
《先の引用で「神話」は、ガブリエルによって「架空の枠組み」という異名を与えられていた。「シェリングにとって、反省は拭い去ることのできない神話的残滓(Rest)を持っている」とも彼は言う。しかしそれは言説的表現の外部にある枠組みであるというよりは、むしろ日常的経験の内部の至るところに潜んでいるもの、そして無反省に信憑されている何かなのだ。そのようなありあれたものとして、「神話」は個人を超えて共有されているのである。》
《(…)個人や民族の意識は、神話が生起する運動を支配するのではなく、ただそのプロセスに従属するのだと、『神話の哲学の歴史的批判序説』においてシェリングは主張しているのである。》
(つづく)