●昨日からのつづき。引用、メモ。清水高志「《意味の場》と神話」(「現代思想」10月臨時増刊号 特集マルクス・ガブリエル)より。
●偶然性の必然性(メイヤスー)に対する、必然性の偶然性(ガブリエル)。
《あらかじめ全体構造を想定せず、つねにすでにそれが包摂されてしまった状態から出発しようとするシェリングの哲学は、へーゲルが語るような「必然的プロセス」が、必ず破綻し挫折することをただ主張しているのではない。それは「知らぬ間に」、「うちに存在する」ことにならざるを得ない、という表現がそこでは採られることになる。そして「うちに存在する」ものである限りにおいて、そうした表象は実在であり、また真理でる、ということが、繰り返し強調されるのだ。》
《「必然的プロセス」が、実際にはある有限の領域にすでに包摂されたものとして現れざるを得ない、というこの事態は、メイヤスーが語る「偶然性の必然性」という有名なテーゼに対してガブリエルが提示する、「必然性の偶然性」という主張の含意をも明らかにしてくれる。》
《(「神話・狂気・哄笑」からの引用)必然的言明、あるいは必然性についての言明は、既存の枠組みの利用可能性と安定性を前提にしており、その枠組みと相対することで、他のようではあり得ない要素間の関係から、特定の(要素の)集合は成り立っているということが正当に主張されうるのである。(…)ここで、必然的言明を可能にする既存の枠組みの必然性、あるいは偶然性をどのように規定すべきかということについては、われわれはつねに高階秩序の問題に直面する。》
《必然的言明とされたものもまた、「その中でこの必然性が記録されていく枠組み」に包摂されたものとしてしか規定されない。それが、あらかじめ先回りされて考えられた必然性によって与えられるのでない限りにおいて、その必然性はは偶然に与えられたものなのだ。》
●ガブリエルの思想は「なんでもあり」なのではないのか?
《(…)ガブリエルにとってなんらかの存在が「存在しない」ということは、とりもなおさず「その《意味の場》に存在しない」ということでしかないことに留意する必要がある。すべての《意味の場》を包摂する世界があり、何かがそのどこにも「ない」、もしくは「ある」という否定的言明を行うことは、彼にとっては意味がないのだ。「どこにも存在しない」という表現は正確ではなく、「どこかに存在しない(そして別の《意味の場》には存在する)」という言明だけが、われわれには許されている。存在を否定するためにの言辞が、「どこかに」という限定を経由しなければならない、と彼は述べているのであって、決してすべてがどこにでもあることを肯定しているわけではないのである。》
《重要なのは、何ものかが現れる《意味の場》において誤謬が起こるのではなく、《意味の場》と《意味の場》をより高階において繋ごうとした場合に、誤謬が生じうるということである。》
●対象=神話における、「脱去」と「理解可能性を成り立たせること」の共存について(「信頼の網の目」としての「神話」)
《(「神話・狂気・哄笑」からの引用)…シェリングが主張したのは、主体の規定的活動それじたい、シェリングが「思惟以前の存在」と呼ぶ、決して到達できない存在の出来事の脱去(Entzug)によって規定されているということである。(…)理解可能性を成り立たせている神話の不可欠性は反省、思考、詩作によっても、決して完全にに透明なものにはなされえないのだ。》
《ガブリエルはここではっきりと「思惟以前の存在」を「決して到達できない存在の出来事の脱去(Entzug)」と呼び、しかもハイデカーとは異なり、シェリングがそれを「神話」という概念において語っているのだと強調している。さらにそれが、反省や思考や詩作によって、つまり想像力によっても、「決して透明なものにはなされえない」ものでありながら、「理解可能性を成り立たせる」ものであるとはっきり明言しているのだ。「脱去」と「理解可能性を成り立たせる」ことは、一見矛盾するようでありながらも共存する。》
《(…)そもそも対象の脱去という主題は、ハーマンにおいては何よりも相互に脱去しあう対象どうしの連関として考えられるものであった。》
《(「神話・狂気・哄笑」からの引用)神話とは、われわれが信頼の網の目へと、つまりその内部からのみアクセスできる信念の体系へと投げ入れられているという粗い事実である。我々がその中にいる信念体系を概観しようとする試みは、必然的に言語の隠喩的な使用を生じさせる。》
《「思惟以前の存在」は、たんにへーゲルが語ったような全体構造の、その全体以前にある不可知の起源の出来事であり、謎であるがゆえに、「神話」なのではない。仮構される全体を超えるものは、諸部分としての《意味の場》であって、それはむしろ至るところに遍在している。全体構造としての「世界」を否定するものとしての「神話」は、必然的に諸部分としてあり、多数的である。「神話」は、お互いにとって「神話」であるものたちから、脱去しあったものから成る。---そしてなにより、それは「信頼の網の目」であり、また「信念の体系」でもあるというのだ。》
《ガブリエルにあっては、一つ一つの《意味の場》は、それ自体すでに「内部からのみアクセスできる」ものであった。しかし、それらの相互入包摂と入れ子的な重層において、まさしくそれは「網の目」のように交錯しており、それこそがまた体系としての「神話」なのだ。唯一の「世界」はないが、われわれがつねにこうした「神話」のうちにおいてある。》