●引用、メモ。浅倉光樹「〈構成的退隠〉から〈無世界〉へ」(「現代思想」10月臨時増刊号 特集マルクス・ガブリエル)より。
《(ガブリエルは)〈概念によって把握可能なものをそもそも可能にしているのが、それにもかかわらずそれ自体としては概念によっては把握できないもの〉という観点から世界の問題をあつかっている。》
《この洞察をガブリエルは〈世界は世界のうちにあらわれない〉と一言に要約している。》
●構成的退隠、「世界の不在」は「構成的」である。「反省」は「存在」と対立してはいなくて、「自らの内部における存在の折り重なりが思考」である。
《〈世界は世界のうちにあらわれない〉というのは、「世界はわれわれのアクセスから逃れ去る」ということ、つまり、われわれの概念的理解の試みから世界は常に脱去する、ということである。ここでガブリエルは、われわれによるこの概念把握を〈反省〉と呼んでいる。ただしここでいう〈反省〉は存在に対立している何ものかと解されてはならない。別の箇所でもいわれているように、「思考は決して存在に対立したものではなく、むしろ自らの内部における存在の折り重なりが思考なのである」。そのような意味に解されたわれわれの〈反省〉において世界はつねに後景ににしりぞく。端的にいえば「世界はこのような退隠にほかならない」。ただしその意味は〈世界はこのような不在において、不在として現象する〉ということである。》
《(…)このような事態はたんに〈退隠〉というたけでなく、さらに〈構成的〉ともいわれている。そのわけは、世界そのものがこのように背景に退くことによって前景が、つまりわれわれの命題理解の領域の、「概念的に声明しうる領域」の構造化がはじめて可能になっているからである。そういう意味で〈世界の退隠〉はちょうどカントの意味における〈経験の可能性の制約〉に相当する。いわばそれはあらゆる「対象領域の可能性の超越論的制約」となっているのである。》
●(退隠する)世界が先か、対象領域(意味の場)が先か?
《(…)世界が「対象領域の複数性に先行するのか、それとも世界はさまざまな対象領域があるということによって初めて後から、遡及的に生みだされるのか」という問いである。しかしすでに見たように、存在は反省に対立するのではない。存在そのものの折り重なりが反省なのである。したがって厳密にいえば、われわれが意味論的な縄を投げかける以前に、世界というものがどこかにわれわれとは区別されて、あたかも泰然自若としてわれわれの〈反省〉を待ちかまえているわけではない。》
《(…)〈反省〉の運動の内部から事後的にその一要素として見られうるもの、それが〈世界の不在〉、あるいは絶えずしりぞいていく背景としての〈世界〉なのである。》
《以前、ガブリエルはこのような事態を次のように説明していた。「絶対者が自らを顕現させるのは退隠においてだけであるが、この退隠は退隠よりも先に存在しているなんらかのものの退隠として実体化されてはならない」、あるいは「何か規定的なものが存在するなら、同時に規定性の逆説的な無規定条件が遡及的に生み出されている」、と。》
●しかし、ガブリエルにおいて「構成的退隠」という語はその後つかわれなくなっていく。グイドー・クライシスへの批判と、「構成的退隠」との区別のつかなさについて。
《クライスによると「世界は存在しているが、厳密な意味で明確にに論理的に述べようとすると、解決できない諸問題を提起する」のである。》
《ここで問題になっているのは、次のような二重の思想である。第一に〈世界そのものは存在するのだが、われわれの言語はそれ自身の限界・制限のためにそれをとらえることができない〉という思想であり、第二に〈このような、それ自体は存在する無限者(世界)を言表しようとしても、その試みはつねに挫折せざるをえないが、しかしまさにその言表の挫折において無限者(世界)は自己を顕示させる〉という考え方である。》
《つまり、ガブリエルと同様にクライスも「矛盾に陥ることなしに世界を思考しえない」ということを出発点にしながら、今度はガブリエルとは異なりそこから「世界は存在するが……」という結論を導き出す。そしてその前提の上に結果的に、〈構成的退隠〉とほとんど見分けのつかない説を展開するのである。》
《ガブリエルの〈構成的退隠〉は〈世界は存在しない〉という前提によって説明しうるが、他方においてクライスのように〈世界は存在する〉という前提にもとづいて説明することも可能である。》
《このような異論はガブリエルの大前提である〈存在と反省の非分離〉をも無効にしてしまう射程をもっているのである。》
●ならば、「世界は存在しない」は「構成的退隠」より根源的でなければならなくなる。より根源的な「世界は存在しない」としての「無世界観」。
《(…)〈構成的退隠〉は本当は〈世界は存在しない〉という主張と同一のレベルに位置しているのではなく、むしろ〈世界は存在しない〉という発言はより根源的なレベルに位置づけられなければならないのではないか。だとすると、「そのような対象(形而上学の対象)は単に存在しないのである」というガブリエルの発言は、このような根源的なレベルであらためて主張しなおされた〈世界は存在しない〉というテーゼであると考えなければならないだろう。私見によると、このようなより根源的な次元に移された〈世界は存在しない〉というテーゼが「無世界観(Keine-Welf-Anschauung)」であると思われる。》
《(…)〈構成的退隠〉の説においてガブリエルは存在そのものから分離しえない〈反省〉の活動について語っていた。しかし〈無世界観〉において問題になっているのは、その〈反省〉が、つまり〈構成的退隠〉がそこから生起してくるもと、その意味で根源的といわれていた〈反省〉の、さらに奥に潜む〈直観〉である。たしかに〈無世界観〉という用語そのものは、世界観ないし世界像との関連を有し、その限りで一面〈世界が存在しない〉という見解という意味ももっているかもしれない。しかしここでAnschauungは文字通りの意味で〈直観〉として、すなわち「世界は存在しないという直観」と解すべきだろう。》
《(…)〈無世界観〉の立場は〈構成的退隠〉によっては十全に言いあらわしえなかった地点に達しているように思われる。その地点は〈構成的退隠〉を惹起する〈反省〉のはたらきの、さらにその根底にある〈直観〉によって示されている。》
●「世界の無」はゴールではない。意味の場の存在論へ。
《(…)この〈世界の無〉はそれ自体ゴールなのではなく、存在論の樹立へと通じているのでなければならない。というのも、われわれはいきなり存在論にとりかかることはできず、「仮象から出発し、それに対して批判的に無効宣言を下す」のでなければならないからである。(…)概念的に理解可能な領域の構造そのものがどのようなものとなりうるかは、〈存在論形而上学からどれほど純化されているのか〉ということにかかっているのである。》
《(…)〈構成的退隠〉から〈無世界観〉への深化は〈意味の場の存在論〉の成立と完全に連動しているのである。〈構成的退隠〉が〈無世界観〉へと根元化されるという事態は、「存在するすべてのものの総体」という概念の徹底的な無化であり、この無化は〈唯一の領域によって包摂されているのではない、統一的な規則によって束ねられているのではない無数の意味の場〉(〈意味の場の存在論〉)が成立しうるということと表裏一体をなしているのである。》
《(…)〈構成的退隠〉は、その〈退隠〉の面が〈無世界観〉へ変貌しなければならなかったように、その〈構成〉の側面は〈意味の場の存在論〉へと変貌しなければならないのであり、この二つの側面はいまや〈否定的存在論〉と〈肯定的存在論〉へと分岐し、そのような両面が一つになって、かつての〈構成的退隠〉の説の後継の位置をしめているのである。》