●マルクス・ガブリエル(『なぜ世界は存在しないのか』)は、対象領域のなかにあらわれる対象と、意味の場のなかであらわれる現象とを分けて考える(意味の場は、対象領域を含むより広い概念)。対象領域のなかで現れる対象は、検証可能である必要があり、間違っている可能性がある(より「正しい」ものに向かっての追求がありえる)。対して、意味の場にあらわれる現象は曖昧で、多義的でもあり得る。そして、そのどちらも「実在する」という(実在の定義は、「何らかの意味の場のなかに現象すること」である)。
たとえば、物理学という対象領域には「民主主義」は実在しないが、政治という対象領域においては実在するし、厳密に検証可能である(「厳密さ」のありようもまた、対象領域によって異なる、物理学と政治とでは、厳密さの意味が違う)。検証可能だというのは、あらゆる対象領域における対象は、それぞれの対象領域に見合った仕方で「存在論的還元」を行うことができるという意味だ。気のくるった人の妄想もまた、その人の心という意味の場に現象しているという意味では実在している。しかし、それは対象領域のなかの対象とは言えない。妄想の内容は、それ以上検証---存在論的還元---ができない(精神病理学という対象領域においては、その妄想は別のあり方で実在する対象と言えるし、存在論的還元も可能であるだろう)。
対象領域のなかにあらわれる対象について判断するには、その対象領域について精通している必要があるが、意味の場にあわらわれる現象についてはその限りではない。芸術作品については多様な解釈があり得るが、物理学的な対象にかんしては多様な解釈は許されない。
●このように、実在するものの「実在の仕方」は、それがあらわれる意味の場によってそれぞれ異なっており、フラットではない。故に、実在論であって唯名論ではない。個物がまずあるのではなく、個物(トークン)はタイプ(意味の場)に依存する。どのような対象(図)も、文脈(地)があってはじめて実在する。
たとえば、ある対象(個物)の同一性は、「絶対的な区別」(それ以外の、ほかのあらゆるものとの差異)によって成立するのではなく、ただ「相対的な区別」(その対象と、対照関係にあるほかのものとの差異)によって成立する。ライン川の同一性は、この世界にあるライン川以外のすべてとの区別によって成り立つのではなく、地球上にあるほかの川との区別、あるいは、行政上でのほかの土地との区別など、さまざまな対照関係のなかの区別によって成り立っている。物理学的な対象としてライン川をみるならば、そこに同一性はない(水は流れ常に変化している)。対照関係(意味の場・文脈・タイプ)抜きに、「そのものそれ自体」はあり得ないことになる。
つまり、個物は個物それ自体として実在することはできず、意味の場に現れる現象(文脈上の意味、タイプのなかのトークン)として、はじめて実在する。故にトークンが実在すれば、タイプ(文脈・意味の場)そのものも、実在する。
(ここで、タイプ/トークンという言い方は便宜的なもので正確ではない。対象領域における対象とは、互いにはっきり区別された可算的な対象である。だからタイプとトークンと言える。しかし、現代の論理学の間違いは、そのような可算的な対象のみを「実在する」としていることにあり、あらゆる存在が、数学的に可算的な対象の集合というわけではない、と書かれている。それより広い実在の領域としての「意味の場」があるのだ、と。)
●文脈(対象領域、意味の場、地)は、われわれ(の認識能力)が世界に対して付与するもの(連続的な世界をわれわれが分節化する)ではなく、それ自体として実在する。多義的だったり曖昧であったりしても、それはわれわれの解釈の問題ではなく、そのもののもつ性質である。世界そのものが、実在する無限にさまざまな文脈としてある。この部分が、カント的な構築主義とも、ポストモダン的な相対主義とも異なっているところだろうと思う。
ここに、メレオロギー的な合成の正しさという問題が出てくる。ある対象は、さらに多くの別の対象の合成によってできているが、しかし、どのような対象でも、ただ合成すれば新たな対象が生まれるというわけではない。世界が、無限に多様なさまざまな文脈としてあったとしても、すべてがフラット(同等)だというわけではないし、なんでもありという訳でもない。
存在論的還元(検証)が可能な対象(対象領域)があり、それが可能でない、経験としての現象(意味の場)がある、という違いがある。存在論的還元によってあきらかになる真/偽の違いもある。そして、間違った意味の場に自分を位置づけることもある(たとえば、心という意味の場に位置づけられるべき現象=妄想=経験の性質を、精神病理学という対象領域に位置づけて還元できたと思ったりする)。つまり、われわれは常に世界に対して(「真/偽」のレベルでの取り違えだったり、不適切な「意味の場」への位置づけだったりして)「間違っている」ことがあり得る。あらゆることがらが等価に相対的であるわけではない。われわれは間違うことができるし、検証を通じてそれを発見し、修正することもできる。
《(…)多くのひとには、あたかも自分のそとに世界があり、自分がある種の部屋や映画館にいて、そのなかで現実を眺めているかのように見えてしまいます。そこから「外界」という概念が生ずるわけです。しかし当然のことながら、わたしたちがいるのは現実のただなかです。ただ、現実のなかのどこに自分がいるのか、この現実全体は何なのか、どのような映画のなかに自分がいるのかといった点について、見当がつかないことが多いだけなのです。》