●もっと別のことを考えるつもりだったし、考えなくてはならないのに、変なことを考えているうちに時間が経ってしまった。まったく的外れなことをしているのかもしれない。
(こういう妙な図を書き出すのは、典型的な「引かれる」パターンだが…。)
ハーマンは『四方対象』で、「実在(脱去)/感覚(現前)」と「対象(一)/性質(多)」という二つの二元論を掛け合わせて、感覚的対象(現前する一)、感覚的性質(現前する多)、実在的対象(脱去する一)、実在的性質(脱去する多)という、世界の四つの極(側面)を提示する。
「対象」とは、多くの構成要素からなるが、しかしたんにその足し合わせには還元されないそれ自身としての何かを創発していて、かつその創発されたものが、周囲のものたちとの関係のなかにありながら、関係性に埋没しない一つの自律性を持続しつづけるもののこと。対象は諸部分を持つが、部分には還元されず(下方解体されず)、対象は諸関係のなかで位置や機能や役割を持つが、その関係に埋没しない(上方解体されない)。対象は、多としてある一であり、多のなかでも一である。
感覚的性質とは、一つの対象がみせる様々に異なる性質であり、感覚的対象とは、その都度、様々な性質をみせるにもかかわらず、それが同一の対象として現前しているということを指す。しかし、実在する対象は、その全貌を現前させることは決してなく、何者とも関係せずに、ただ自分自身であることにひきこもっている。感覚的対象は、そのような実在的対象のごく限られた側面だけが、歪曲した形で翻訳されたものにすぎず、実在的対象は決して汲み尽くされない。実在的性質とは、そのような、完全に自分自身に引きこもっている実在的対象でさえもまた、様々な諸部分から構成されていることを指す。
この関係は、下のような四象限であらわすことができるだろう。
●感覚的対象(SO)、感覚的性質(SQ)、実在的対象(RO)、実在的性質(RQ)という四つの側面は、それぞれの10パターンの組み合わせにより、四種類の緊張、三種類の放射、三種類の接合という関係をもつ。例えば、一つの感覚的対象が、様々な異なる感覚的性質によって現前され、にもかかわらずそれは一つの対象としてみなされるので、感覚的対象と感覚的性質の間には分裂があり、緊張関係がある。しかし、実在的対象が、様々な実在的性質からなるとしても、それらはそもそも現前しないので、対象はたんに性質たちの融合(接合)としてあっても矛盾はなく、よって分裂はなく、緊張関係もない、とされる。
そして、世界の四種類の側面たちの10種類の関係のなかで、唯一「直接的な関係」が可能なのが、実在的対象と感覚的対象の間の関係であるとされる。
このような事柄を、上の四象限の図を、実在的対象の領域を軸として鏡像的に反転して上に重ねた図として表現できる。
しかも、この関係は非対称的である。感覚的対象は、実在的対象の歪曲された翻訳でしかなく、しかも感覚的対象は、実在的対象の「志向」のなかにのみ存在する対象であるので、ここでの出会いは「実在的対象→感覚的対象」という、一方通行の出会いでしかない。ハーマンは、人や生物、自然物以外の、あらゆる実在的物に「志向性」を認めるので、実在的な人が、感覚的な木に出会うと同時に、実在的な木が、感覚的な人に出会うということもあり得る、とする。しかしその出会いは、「人⇔木」という双方向的なものではなく、「人→木」であるか、あるいは「木→人」である、という風に、二つのそれぞれ異なる出会い(別の関係)ということになる。
しかしこの時、実在的な人と、実在的な木とが、間に「感覚的な木」という媒介を挟むことで、代替的(間接的)に関係しているとは言える。実在的対象(A)は、感覚的対象(B’)を媒介とすることで、間接的、代替的に、実在的対象(B)と関係している。
これを、上の鏡像反転をさらに増殖させたグリッドを使って、下のように表すことができる。
●そして、『四方対象』には、《どんな関係も直ちに新しい一つの対象を生みだすものである》(P181)と書かれている。つまりこの、実在的対象(A)と実在的対象(B)との、感覚的対象(B’)を介した代替的関係から、あらたな実在的対象が創発されて、生まれる。というか、この「関係」そのものが、一つ上位の階層での「対象」となる。
このことは、下の図のように書ける。
●しかし、ハーマンは次のようにも書くのだ。《私が木を知覚するとき、この感覚的対象と私は、私の心のなかでお互いに出会っているわけではない。理由は単純で、私の心とその対象は志向という働きにおける二つの対等なパートナーであり、それらを統一する項はその双方をともに含んでいなければならないからである。心が部分であると同時に全体であることは不可能である。その代わりに、心とその対象はともにより大きな何かに包括される。すなわち、両者はいずれも、私と実在的な木との関係を通じて形成される対象に内に存在する》(P179〜180)。つまり、二つの対等な項の出会いが、一つ上位の対象を創発するということと同時に、一つ上位の対象が、第三項(パースで言えば「解釈項」的な対象)となって、それによって下位の階層で二つの対象の代替的な出会いが実現するとも言える。
つまり、下の図のように、矢印は逆向きでもあり得る。
●これらを考え合わせると、「一方が脱去する非対称的な二項関係」が、階層をまたいで「二つ連結する」ことで生じる「三項関係」ということを考えることができる。ハーマンは、《心が部分であると同時に全体であることは不可能である》と書くのだが、一方で次のようにも書く。《しかし、私と木の関係が一つの新しい対象を形成するとすれば、その対象の実在的な部分としての私は、この対象の内に自らを見出し、[この関係の]もう一方の部分の単なるイメージと対峙することになるのである。》(P182)
このことはおそらく、下の図のように描けるのではないか。