●お知らせ。「ÉKRITS」に、『「幽体離脱の芸術論」への助走/メディウムスペシフィックではないフォーマリズムへ向けて』というテキストがアップされました。
http://ekrits.jp/2018/03/2515/
かなり長いです。内容は、以下の目次の感じです。今、書きたいと思っていたことを書かせてもらえました。

1. モダニズムメディウムスペシフィックという「古い物語」の見直し
グリーンバーグの内在的批判主義の復習
モダニズムからミニマリズムへ(観る人の「位置」の転換)
モダニズムという「古い物語」
・「古い物語」の見直し
2.「対象(オブジェクト)」たちの袋詰め的入れ子構造と、フラクタル的関係性
・作品の外と、作品の内(観る人の「位置」の転換、ふたたび)
・ハーマンの「四方対象」
・袋詰め的な入れ子構造
3. 眼の奪い合い/食人/パースペクティブの交換
・さらに、「地」の複数性について
・「このわたし」というパースペクティブの唯一性と、他者からの視点の切り返し
・ヴィヴェイロス・デ・カストロによるパースペクティブ主義
パースペクティブの交換としての「食人」/「中心」が「外」にあること
4. 幽体離脱の芸術論に向けて
・「わたし」がわたしから抜け出る体験と、世界視線
幽体離脱VR
・結び — メディウムスペシフィックではないフォーマリズムへ

●もしかすると、「1. モダニズムメディウムスペシフィックという「古い物語」の見直し」の部分は、ほんとにごく一部の人しか興味をもたないかもしれない。でも、マイケル・フリードが、執拗に(今日に至るまでずっと)こだわっている「没入」という概念は、グレアム・ハーマンの「脱去」という概念とすごく相性がいいのではないかという気がしていて、おそらくハーマンもそう思っているからこそ、「Art Without Relations」というテキストを書いてフリードの古典的なテキストを(今更、という感じで)取り上げたのではないかと思う。だから、フリードについて考える時にハーマンが、あるいは、ハーマンについて考える時にフリードが、意外にもよい導きになるのではないかと思う。まあ、ほとんどの人はフリードへの興味はないのだろうけど(ぼくは「没入」にいつまでもこだわるフリードが「好き」だけど)。
フリードの「没入」は、ハーマンの言う「実在的対象」が、自らの裡に引きこもりつつも、自らも知らないうちに「感覚的対象」や「感覚的性質」を振りまいてしまっている様を表現している概念だと考えると、分かりやすいのではないだろうか。それは、地の図からの脱去と、図の地からの顕現の同時性を表していると思う。そのような意味で、リテラリズムへの否定を二人は共有している。しかしハーマンは、リテラリズムは否定しても、(フリードが否定する)演劇性は否定しない。そこにハーマンの思考の複雑さと、モダニズムに対する新しさがあると思う。つまり、フリードは没入を二項関係で考える。しかしハーマンは、脱去を考えるが、それを三項関係の上で考える。そして、その三項を袋詰め的にひっくり返すことも考える。
ハーマンは、ただ「対象のあらゆる関係性からの脱去」を主張しているだけではないということを、フリードと比較することで分かりやすく示せるのではないかと思った。
ニューラルネットワークによる画像生成についてもっと勉強したいのだけど、文献が英語しかないことと(ネットに無料である、というのはありがたいけど)、数学的な弱さがあることで(つまりぼくが語学的にも数学的にも弱いということです)、ところどころで引っかかり、遅々としてすすまない。