2023/07/21

⚫︎クラウスの『ポストメディウム時代の芸術』を読んだ。クラウスの言っていることは分かるし、ある程度納得はするのだが、でも、なぜブロータースなのかというところが今ひとつ分からなかった。サブタイトルが「マルセル・ブロータースの《北海航行》について」なのだが、この作品についての記述が薄いし、この作品については「ポストモダンの公式見解」みたいな、割とよくある感じの落とし所が示されていると感じた。もう一歩、二歩、突っ込んでよ、と思ってしまった。

⚫︎モダニズムが崩壊して、美的な経験、芸術的な経験が、日常と資本主義の中に解体され、埋没してしまった。その中で芸術はどうすればいいのか。このような問いはもっともだと思う。そこでベンヤミンが召喚される。ある技術が(それこそ資本主義のなかで)古びてしまった時にこそ、その技術がもともとも持っていて、十分に発揮されてこなかった可能性が改めて顕現するのだ、と。あり得たものとしての可能性が、日常的な使用や、資本主義的な価値から切り離された時に露わになる。そのような、技術のアナクロニックなありようのなかに、美的、芸術的な経験が現れる、と。そこで、消費者に対する「募集家」としての芸術家としてブローターズが挙げられる。

(ここで、ベンヤミンのこの概念をひっくり返したものが、エリー・デューリングの「レトロ未来」なのではないかと思った。)

(あるいは、道具は「壊れた」ときにそのオブジェクト性が露わになるというハーマンの議論と重ね合わせれば、それが必ずしも「古くなったもの」である必要もないのではないかと思ってしまう。クラウスには「救済」というモチーフもあるので、レトロなものということになるのだろうが。)

⚫︎この本でクラウスは、モダニズムという概念をメディウムの単一性に求めたグリーンバーグに対して、「経験の単一性」にこそ求めるべきではないかと言っているようなところがあって、その例として「映画(構造映画)」を挙げている。映画は、フィルム、プロジェクター、スクリーン、暗い部屋、観客、そしてフィルムを生産する写真装置など、さまざまに寄せ集められたメディウムの相互作用として「(映画という)装置」を形作っているが、この装置は《多種多様な要素からなるこの支持体を持続する単一の経験にまとめ上げる》ため、《観客が志向性の働きによって自分自身の世界と繋がる仕組みの一モデルとして立ち現れる》ことを目的として積み立てられている。故に、映画の経験はモダニズム芸術的な経験になる、と。しかし、モダニズム芸術としての映画(構造映画)はビデオの出現によって破壊される。《ビデオは事実上、テレビと同じもの、つまりどちらも放送のメディアであり、空間的な連続性を引き裂いて遠く隔たった場所と場所の間で送受信を行うもの》であるから、経験の単一性は成立しなくなる、と。

(これについてぼくは面白い指摘だと思いつつも、完全に同意はしない。モダニズムの芸術の根拠が「経験の一元性」にあると言えるのは、戦後アメリカ美術に限ったことであり、マネやセザンヌマティスなどには当てはまらないと思われる。この点については、コーリン・ロウによる「虚の透明性」と言う概念の方が「使える」ように思う。)

⚫︎このことと関係もあって、メディウムという概念について書かれていることで面白いのは、クラウスが、グリーンバーグやフリードが「カラーフィールドペインティング」をモダニズムの芸術と認めていながら、それを十分に捉えられていないとして、グリーンバーグの「視覚性」という概念を記述し直すところだ。

《(ポロックに関して)モダニズムの論理は「〔絵画に本質的な約束事ないし基準――平面性と平面の境界確定――〕というただ二つを厳守すること」で絵画として経験しうる対象を生み出すには十分だというところまで到達しているとグリーンバーグは捉えたが、その次に彼は、この対象をかつて彼が「視覚性」と呼んでいた流動体のなかに溶かし込んで、それを「カラーフィールド」と名づけたのである。》

《このことから、彼は絵画についての解釈の軸足を、第一の基準――平面性――から、第二の基準――平面の境界確定――へと移したように思うのだ。彼にとって後者、平面の境界確定とは、物理的対象の輪郭を確定することではなく、視野そのものが共振的に投影されることを意味する(…)純然たる色彩の光輝のみに起因するこの共振現象は、脱身体化されているために、純粋に視覚的なものであるばかりか「絵画平面を開き拡張するもの」でもある、と彼は言う。それゆえ、グリーンバーグのいう「視覚性」は、(…)測量可能な物理空間を表す実数パラメータを超越し、前客観的次元における「見る」という現象の、純粋に投影的な諸力――「視覚現象(ヴィジョン)そのもの」――を表しているのである。》

《このように、60年代において「視覚性」は、単なる一つの芸術の特徴以上のものとしての役割を担っていた――それは芸術の「メディウム」になっていたのである。》

カラーフィールドペインティングを観る時、我々は「脱身体化」していて「純粋な視覚現象」となっている。そしてその時、「視覚性」こそが「メディウム」となっている。これは通常言われているモダニズム絵画の展開、還元主義的なモノクローム絵画からミニマリズム(リテラリズム)的な「固有の物体」へという物語とは違っている。そしてここにこそ、フリードがリテラリズム(ミニリズム)を受け入れられないという時の「譲れなさ」があり、「経験の一元性」よりも重要なモダニズムの掛け金のようなものがあるのだと思う。

⚫︎唐突なようだが、「面とはどんなアトリエか?」の第二回目で鈴木一平が、本の見開きのページは、我々の視覚には(斜めになっているから)台形として知覚されているはずだが、それを(正確に真正面から見たような)長方形と補正して捉えている、その補正された、ヴァーチャルなものとしての「長方形の平面」こそが「本のページ」であり「詩」がそこから立ち上がる「面」であると言っていた。それを聞いて同様のことがモダニズム絵画にも言えると思った。モダニズム絵画における「平面性」とは、リテラルな物質の表面の平さのことではなく、(たとえ正確に真正面から見られていないとしても)そのように補正されると想定されるヴァーチャルな矩形の平面のことなのだ。つまり、モダニズム絵画の「メディウム」とはそのようなヴァーチャルな平面性だと言っていいのではないか。カラーフィールドペインティングでは、色彩によってリテラルな平面(キャンバスの表面・あるいは描かれた面の位置)が見失われ、見失われるからこそカラーフィールドが成立する。モダニズム絵画は、そもそもそのようなヴァーチャルな平面で起きる出来事であり、リテラリズム(ミニマリズム)の作品はそうではない、ということになる。だからグリーンバーグの還元主義(本質主義)も、リテラルな平面への還元主義ではなく(それだと行き着く先はミニマリズムしかない)、ヴァーチャルな平面性への還元主義だったと思われる(それにしても行き着く先はカラーフィールドしかないように思うが)。

だから、モダニズムの崩壊とは、このような意味での「ヴァーチャルな平面性」が自明なものとしては成り立たなくなってしまった、ということではないかと思う。

⚫︎この本は、モダニズムとその崩壊について書かれているところはとても面白かったのだが、モダニズムの崩壊以降、芸術的経験が日常と資本主義の中に埋没してしまった時に、ではどのようにすれば芸術的な経験が可能なのかという部分については、惹かれるところが少なかった、という感じか。初期の写真や、初期の映画の中に、今では見失われてしまった特別な輝きのようなものがあるのは確かだと思うが、それを「現在」の作品としてどう扱うかということはそれとは別で、その「別である」ことを簡単に解決できるとは思えない。だからこそメディウムは再発明されなければならないのだが、ブロータースの作品がそれを実現しているようにはあまり思えない。実際、もう新しさはいいから過去に向かおうという姿勢とか、募集とその展示という技法とかにしても、俗流的なポストモダニズム(と、それに連なる消費社会)と親和的だし、今ではむしろありふれた手法になってしまっているようにも思う(リサーチして、資料を集めて、展示します、アーカイブを作って、展示します、みたいな)。

「ヴァーチャルな平面性」が自明のものとして成り立たなくなったからこそ、リテラルな「固有の物体」を提示するのだというモダニズムからミニマリズムへの移行を、グリーンバーグやフリードは受け入れられず、それ以降の芸術について考えることをやめてしまう(フリードは復帰したが)。だがクラウスは、モダニズム以降にも受け入れ可能というか、肯定することが可能な何かを、それでも探して理論化しようとする。その姿勢は尊敬するが、でも、それはなんかちょっと弱い気がする(「アンフォルム」とかにしても弱いと思う)。

だから、芸術の「現在」を考えるときに、クラウスを参照してそれをするのは難しい。しかしぼくは、モダニズムは終わってしまったとしても、モダニズムの芸術の達成の中には、今もなお使えるものが多くあると思っていて、(クラウスが「終わってしまった技術のなかから可能性を再発掘する」と主張するように)モダニズムの未だ十分に開示されていない可能性を探ろうとする時には、クラウスを参照することに意味があるように思われる。

⚫︎フリードが否定的に提示するリテラリズム(ミニマリズム)と、例えば山本浩貴(いぬのせなか座)の言うリテラリズムは重なる。ヴァーチャル(スクリーンの向こう側・スクリーンの表面)からリテラル(スクリーンのこちら側)へという注目する位置の変更において。しかし、フリードがリテラリズムを批判するのは、「作品のリテラルなありよう」が身体(肉体)に与える影響の仕方においてだ。対して山本浩貴が問題にしているのは、こちら側の身体(肉体・生)が、どのように面(ヴァーチャル)を使用(利用)できるのかということが問題となっていると思われる。これは、作品が主なのか、観者(肉体・生)が主なのかという主客の問題ではない(どのみち相互作用的でなければ意味がないので主客の違いは相対的なものに過ぎないだろう)。フリードは、リテラルな物体がリテラルな身体に作用するあり方を(「演劇的」というややこしい概念で)批判しているが、山本浩貴は、ヴァーチャルなものリテラルなものの側への影響を、リテラルな肉体がどう使用して自分を変え、さらに変わった自分がヴァーチャルをどう変え、その相互作用が層としていくつも重なっていくことで(リテラルな)自分が変わり、それが生を支える、みたいになっているのだと思う。

(ここでヴァーチャルは、仮想・虚構であると同時に「比喩」でもある。)