2023/04/15

三鷹SCOOL「面とはどんなアトリエか?」の第二回に行く。『背』(七里圭)の上映も観る予定だったが、時間を一時間勘違いしていて観られなかった。

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鈴木一平による現代詩にかんする発表を聞きながら、ぼくはぼくで近代絵画における「面(平面)」について考えていた。

鈴木一平は『レイアウトの法則』(佐々木正人)における鈴木一誌による発言を引く。本には、物体としての側面とレイアウトとしての側面とテクストとしての側面の三つがある。物質としての本は厚みのある三次元空間の中にあり、目には、本のページは台形として見えている。しかしそれをレイアウトとして捉える時、それは常に正面性を保った長方形の「平面」となる。面が平面となるときそれはは拡大・縮小も可能となり、時間も捨象される。次に、テクストとしての側面に入っていくと、テクストの連なりという形で、再度、時間が仮構されるようになる、と。

鈴木一平はこの発言を受け、物体としての本の上に展開される二つの面(レイアウトの側面とテクストの側面)の「あいだ」を架橋する「第四の面」として「詩」を考える、とする。

(「詩」は、自らの支持体である「第四の面」を、自分自身のありようによって自ら立ち上げる、と。)

●これってまさに、グリーンバーグとフリードの話だな、と思う。グリーンバーグは、絵画とは「限定された広がりを持つ平面のことである」と言い、故に、「何も書かれていないキャンバスは既に絵画である、成功した絵画ではないとしても」と言う。フリードは、その発言を根拠に、グリーンバーグがリテラリズムを許容したとして批判する。しかし、グレアム・ハーマンは、フリードはグリーンバーグのいう「平面性」を誤解していると言う。グリーンバーグが「何も描かれていないキャンバスは既に絵画だ」と言うとき、リテラルな物質としてのキャンバスそのものがそのまま絵画であると言っているのではない、そこで問題となっているのは、あらゆる描かれた絵画の背後にあって、それを成立させる基底となっている「平面性」なのだ、と。《絵画の唯一の不可避な慣習が平面的であることと形状があることであるため、何も描かれていないキャンバスであっても、これらの慣習を満たすものであるということです》(グレアム・ハーマン『Art and Objects』)

つまり、「平面性」というとき、絵画の物体としての側面のことを言っているのではなく、レイアウトとしての側面の話をしているのだ、ということになる。

そして、近代絵画、あるいは、アメリカ型フォーマリズム絵画が「メディウム・スペシフィックなもの」としてあるのだとしたら、絵画のメディウム的(レイアウト的)側面と、内容的(テクスト的)側面との間に、緊密で緊張した相互参照的な関係がなければならない、ということを意味する(アカデミズムの絵画は、イリュージョン=テキスト的側面のみを重視し、メディウム=レイアウト的側面を軽視する)。ここではまさに「第四の面」が問題になっている。つまり、近代絵画的な「表現」が立ち上がる「第四の面」とは、絵画のメディウム的側面(平面性)と、内容的側面(再現性・三次元性・イリュージョン性)との間に生じる齟齬と、その止揚あるいは架橋によって生じる緊張関係から生まれる。

(しばしば誤解されているが、近代絵画は「平面性」を理想のようにして目指す過程ではなく、平面性とイリュージョン性との相剋、その間の架橋、あるいは強引な接合、間違った繋ぎ、の様々なありよう、それによって生まれる様々な非ニュートン的、非カント的な時空性こそが問題となっている。マティスなどはあからさまにそうだし、ピカソの立体作品の面白さは「平面性」への意識の延長上にある「多平面」であることによって生まれる、など。それは、両者―-メディウム性と内容性-―が限りなく一致に近づいているように見えるロスコやニューマンでも基本的には変わらない。一致に近づいているが、一致してはいない、その不一致にこそ表現性が生じる。)

(フリードは絵画のリテラルな物体的側面としての平面と、メディウム的、レイアウト的な側面としての「平面性」とを混同していると、ハーマンは批判するのだが、この混同は、美術にかかわる多くの人に共有されてしまっているように思う。)

●実際、鈴木一平によって紹介された、2000年代から2010年代にさされた現代詩の実践をみながら、近代絵画との類似性を感じていた。

●ここで、グリーンバーグ、あるいはアメリカ型フォーマリズム絵画を枯渇の方向へ追い込んでしまった原因に、彼らが求めたものが「メディウム的側面」と「内容的側面」との「一致」という方向にあったということがあるのではないかと、ぼくは考えている。文脈は異なるが、高松次郎の「この七つの文字」という作品がある。紙に「この七つの文字」という「七つの文字」が印字されている。ここでは表現のメディウム(七つある「文字」)と、表現が指示するもの=内容(「この七つの文字」という文の「意味」)が完全に一致する。ここには確かにメディウムと内容との緊張をはらんだ相互参照があり、そこから循環する自己言及的で奇妙な空間が立ち上がっている。しかし、この表現から「ああ、なるほど」という以上の何かが出てくるのだろうか、とも思う(正解=行き止まり感がある)。文脈も次元も異なるのだが、フォーマリズムの作品がそちらの方向(メディウムと内容が一致する純粋絵画)に向かってしまうと、その果て(のすぐ先)にリテラリズムが出てくるのは必然だろうと思う。

繰り返しになるが、近代絵画の豊かな可能性は、このような「一致(「不可能性」としてある「あり得ない一致(理想状態)」に漸進的に近づこうとする運動)」にあるのではなく、決して一致しないものの強引な架橋であり、間違った繋ぎ方から生じるあり得ない時空間の方にある。それを、最も早い時期に、意識的に行っていたのがマネなのだと思う。近代絵画は「平面性への意識」から始まるのではなく、「平面性の複数化への意識」から始まるとぼくは考える。

このとき(詩とのアナロジーで言えば)、テクスト的側面を工夫することで、レイアウト的側面を複数化するということが重要になる(レイアウト面の複数化は、「第四の面」の成立とその効果によって生じる)。この「レイアウト面」の複数化を、最もシンプルに表現したものが「虚の透明性」という概念ではないかと思う。図と図とのあり得ない接合が、その背後にある「地」を複数化する。

(近代絵画において「虚の透明性(複数レイアウト面の矛盾)」だったものが、戦後のアメリカ型フォーマリズム絵画では「fort-da的な明滅(同一レイアウト面の明滅と振動)」へと置き換わってしまった、とは言えるかもしれない。)

●しかしここで、詩における、レイアウト的側面とテクスト的側面という二つの側面を、さらにその背後で支えるのは、本の「物体的な側面」だということになる。この「物体的な側面」における条件が変わってしまえば、二つの側面を架橋する「第四の面」のありようも変化してくるだろう(それは、さらにその背後にある「現実全般」の変化からくるものだ)。鈴木一平は、光に囲まれた物(面)としての本から、それ自体が発光する面(GUI)への変化を挙げている。そしてその面は、その同じ面に、文字や画像だけでなく、映像を表示するし、背後で様々なプログラムが作動している(作動させることができる)。

(映画が、影=映写から、それ自身が発光する平面に変わって影が失われた、と、七里圭も言っていた。)

(鈴木一平は、それ以外にも「震災」を挙げていたが。)

しかし、この講座で取り上げられる「現代詩」の作品は、基本的に紙の上に印刷されることを前提に成り立っているものであるように思われた。故に「近代絵画」との類似性が感じられるのではないか。

●近代絵画と通じるものを感じる程度には、ある意味では「古い」問題(今、美術をやっている人にとって、グリーンバーグやフリードを問題にすることなど、化石を発掘しているようにしか見えないだろう)でもある「第四の面」をめぐる様々な技術や認識が、それでも現代においてなお有効なものとして「使える」のかどうか。「使える」としたら、どのようにすれば良いのか。別の文脈だったかもしれないが「魔改造してでも使う」と山本浩貴が言っていたように思う。この講座は、魔改造のための原資であり材料であるものを得るための基礎講座ということでもあるのかも。

(ハーマンの『Art and Objects』もまた、「フォーマリズム」の相当乱暴な魔改造だ。)

●そしてこのことは、第一回の山本浩貴による発表、面の「向こう側」から面の「表面」、そして面の「こちら側」へという「問題の位置」の転換という問題意識へとつながっていくだろう。