2023/03/27

●『Art and Objects』(グレアム・ハーマン)の第四章「The Canvas is the Message」。今時、グリーンバーグをこんなに熱心に読んでいるのはハーマンくらいではないか。

まず、フリードによるグリーンバーグ批判には不当なところがあるとして、それを指摘しつつ、そこを軸としてグリーンバーグを読み込んでいきつつ、彼の名誉回復を試みている。そして次に、グリーンバーグとハイデカーとマクルーハンの論理的な同型性が指摘され、比較検討され、グリーンバーグとハイデカーが陥った誤りをマクルーハンが避けている、と言われる。そして最後に、グリーンバーグが自分自身の理論の限界を越え出ようとしているテキストとして、キュビズムのコラージュについて1958年に書かれた論考が紹介される(このテキストは日本語に翻訳され、『グリーンバーグ批評選集』に収録されている)。以下、引用はすべてChatGPTによる翻訳(※はぼくが追加した説明)。

●フリードは「芸術と客体性」で、グリーンバーグが《「絵画芸術には時代を超えて不変の本質がある」という見解を持っている》と書き、その「本質主義的」な性質を批判しているが、それは誤りだと、ハーマンは指摘する。《彼は、この命令(※メディウムスペシフィック)を現代主義絵画に厳密に限定しており、それをマネから未だ到達していない将来の時点まで続くものとして日付けしています。グリーンバーグを読む際には、次のような声明に遭遇することがよくあります。「古典的なアバンギャルドが媒体の「純粋性」に重点を置くことは、時代限定のものであり、他の時代限定の強調と同じく芸術に対して義務的なものではありません」(LW 16)》。また、モンドリアンが《「純粋な抽象的関係の形式が、未来においてはすべての他の形式よりも絶対的に優れている」と主張した》ことを《許しがたい過ち》だとさえ書いている。グリーンバーグは、「(当時の)現代の前衛」が絵画の平面性を根拠とした抽象的な作品としてあることは、あくまでも「現代」という時代に限定された必然性だと言っているのであって、それが普遍の本質だと言っているわけではない、と。

●また、フリードが、グリーンバーグ主義に代わるものとして提示する「古典的、歴史的な傑作と同等のものとして比較に耐えうるものであるかどうか」を、現代的な前衛の作品を認めるかどうかの基準とするという主張は、まさにその同じことをグリーンバーグが言っていると指摘する。

●フリードは、グリーンバーグが《絵画の本質を発見することを目指したマネからポロックまでの段階と、芸術の品質を決定する本質を発見しようとしたニューマンから始まる段階を分けること》を恣意的であるとするが、この分類には必然性があるとハーマンは考えている。ただしグリーンバーグは、マネからポロックまでの段階の作品については多く言及しているが、ニューマン以降、たとえばロスコやスティルについてはそれほど熱心には言及していない。

●フリードは、「抽象表現主義以降」でグリーンバークが書いた《張られただけのキャンバスは既にそれだけで絵画として存在する、必ずしも成功した絵画ではないとしても》という発言から、彼がリテラリズムを肯定したかのように言っている。しかし、それはグリーンバーグの「平面性」を誤解しているとハーマンは言う。グリークバークの平面性とは、リテラルな物質としてのキャンバスそのもののことではなく、あらゆる描かれた絵画の背景にあって、それを成立させる基底(地)となっている平面性のことなのだ、と。

《フリードの誤解は、グリーンバーグの「引き伸ばされたまたは打ち付けられたキャンバス」がリテラルなオブジェクトであるかのように仮定することにありますが、これはそうではありません。グリーンバーグのポイントは、絵画の唯一の不可避な慣習が平面的であることと形状があることであるため、何も描かれていないキャンバスであっても、これらの慣習を満たすものであるということです。》

●ここから、面白い展開に入っていく。

《「平面性」とは、日常的な言葉では何かの表面的な外層を意味しますが、グリーンバーグにとっての平面性の意義は、表面ではなく、深い背景としての役割を果たすことにあります。それはハイデッガーの存在(存在自体)に類似しています。逆に、立体的な錯覚は知覚的な深さを示唆していますが、実際には、描かれたものすべてを純粋な関係空間に置くことになり、その中で物事は自分自身の深さを欠いています。》

《ここでマクルーハンのアナロジーが役立つかもしれません。カナダの偉大なメディア理論家であるマクルーハンにとって、テレビという媒体は特定のテレビ番組の内容よりも重要であり、ここでマクルーハングリーンバーグはお互いに似ており、Heideggerも同様に、その見落とされた背景(存在)に対する内容(存在物)に燃える軽蔑を示しています。しかし、マクルーハンがテレビを媒体として語るとき、彼は明らかに媒体の文字通りの物理的特徴である陰極線管、ダイヤル、ガラススクリーン、送信塔を指しているわけではありません。これらの文字通りの特徴は単に、非物理的な媒体であるテレビ自体を組み立てる物理的な構成要素です。私が主張するのは、同様に、グリーンバーグの平たい背景キャンバスは、文字通りの物理的なものとしてのキャンバスとは何の関係もありません。

●初期のグリーンバーグは、アバンギャルドに対して「キッチュ」を批判していたが、キッチュという語はその後は使われなくなり、それに変わって批判される対象として「アカデミック」という表現が浮上する。アカデミズムの絵画は「媒体の条件を無視する傾向にある」ことによって批判される。

Greenbergが学術主義とは何かを明快に説明しており、それは明言されている以上の意味を持っています。学術主義は、自分が働いている芸術の媒体の条件を無視する傾向にあることが原因で、言葉が不明瞭になり、色彩が鈍くなり、音の物理的な源があまりにも分解されるという結果をもたらします(強調は筆者による)。しかし、Greenbergはまた、芸術家たちが媒体を無視するときに注目しているもの、つまり芸術の内容を示唆しています。このことから、前衛芸術の適切な役割は、内容ではなく媒体に注目することであると推定できます。しかし、どんな芸術にも少なくともいくらかの内容があるため、芸術から内容を消し去ることを目的とするわけではありません。代わりに、前衛芸術の目的は、どのようにして内容が媒体に参照または言及するかということです。

●つまり、アカデミズムではない、アバンギャルドの芸術においては、媒体と内容との相互参照的な関係が問題となる。これだけだと、いわゆるメディウムスペシフックということなのだが。

Greenbergと平坦性について話していたので、ハイデッガーの表現はすぐに思い起こされるでしょう。Greenbergは絵画から内容を排除できるとは考えていなかった。芸術における抽象性も、日常生活とは異なる形式の内容でありますが、それでも内容の一形態である。しかし、ハイデッガーグリーンバーグは、明示的な表面の内容が、何らかの形でその運用する媒体に対する意識を示す方法を模索しています。言い換えれば、ハイデッガーの(※批判する)形而上学の歴史は「存在自体を直接的に明らかにできる」という誤った前提に基づく「超神学」であり、グリーンバーグの(※批判する)「アカデミック・アート」の概念は、その媒体に関心を払わないものであるという意味で直接的に対応しています。

《もうひとつの明白な類似点はマクルーハンで、彼も2人の著者と同じく表面的な内容を軽蔑しています。彼の最も有名なスローガン、「メディアこそがメッセージである」の意味はまさにこれです。テレビ、指紋採取、核兵器を「良い」または「悪い」に使おうと、それぞれの場合に決定的なのはメディア自体であるということです。この考え方は、私の見解では未だに十分に活用されていないマクルーハンの全ての作品の基盤となっています。グリーンバーグシドニーの聴衆に「学院主義は、芸術のメディアをあまりにも当然のことと見なす傾向がある」と語ったとき、マクルーハンがこれらの言葉を書いたかのように想像できます。(…)マクルーハンの視点から見ると、芸術家の使命は、ハイデガーの「寄与」で哲学者の役割に非常に似ています。ハイデガーが1930年代に「存在の真理から存在の本質的形態を再構築する」と書いたのに対し、マクルーハンは1970年に芸術家の役割は、使い古された表現をアーキタイプに変えることであると主張しています。「Dead media」のように、役目を終えたただの見える存在(例えば昨日の新聞)を新しいメディア、新しいアーキタイプに再構築すべきだということです。ジョイスは、そのように行ったとされる人物の中でも、マクルーハンに最も賞賛された人物の一人でした。アーキタイプは私たちの経験を組織化しますが、それ自体は直接には見えません。これはハイデッガーにとっての「存在の真理」やグリーンバーグにとっての平坦な背景媒体と同様です。》

グリーンバーグにとっての「絵画(内容)」に対する「平面性(メディウム)」とは、リテラルなキャンバスそのもののことなどではなく、ハイデカーにとっての「存在者」に対する「存在」、マクルーハンにとっての「メッセージ」に対する「メディア」に相当するものである、と。それはいわば「図」に対する「地」であり、「現れるもの」に対する「隠れるもの(脱去するもの)」である、と。考えてみれば、アメリカ型フォーマリズム絵画の究極(不可能な)の目標は、地=媒体と、図=内容を一致させるということであって、つまり、常に背景へと脱去するものの「深み」そのものを内容とする(表面に浮かび上がらせる)ということだとも言える。

●そこで、「存在(平面・メディア)」は一か多かということになる。

しかしながら、ハイデッガーグリーンバーグの両方にとって問題となる、重要なエラーをマクルーハンが避けたという意味合いもあります。ここで、上述したオントロジカル・ディファレンスの2つ目の側面に戻ります。最初の側面は、暗黙的と明示的、隠されたものと現れたもの、媒体とメッセージの違いです。私はこの区別を完全に支持します。この区別は、哲学、芸術、または他のどこにおいても、リテラリズムやリレーショニズムに対抗できる唯一のものです。存在は、個別の存在が提供できない自律性と自己閉鎖性を示し、ハイデッガーによれば、「媒体」と同様に、グリーンバーグマクルーハンの両方の概念に似ています。しかしながら、彼のオントロジカル・ディファレンスの2つ目の側面は、より信憑性に欠け、より制限的です。それは、ハイデッガーが個別の存在(※存在者)を存在よりも表面的だと位置づける傾向があるためであり、それは存在するからだけでなく、多数存在するためです。

《彼の多数の「存在」という言葉の使用に限らず、芸術における隠された「地球」についての議論においても、個々の存在は一つのものであるという単一性の概念に加えて、複数性に対しても浅薄であるという傾向が彼にはある。》

マクルーハンはこの特定の罠を回避することに成功しました。彼にとってのメディアは個々のものであり、時間の経過とともに現れ、死んでいき、また「過熱」と呼ばれる過程を通じて逆転する傾向があります。一方で、グリーンバーグは哲学者よりも可能な逃避のメカニズムを探究できたものの、モニスティックな罠を回避することには同様に成功していないように思われます。》

《形状の問題を一旦無視してみましょう。すべてのキャンバスは同じように平らであり、つまり平らさはすべての絵画にとって同じ平らさであるということを意味します。ここで、グリーンバーグハイデッガーは血のつながった兄弟のように見えますが、ハイデッガーの方が遥かに極端です。グリーンバーグは平面性がすべての絵画の媒体であると述べるに留めますが、ハイデッガーは全てのものの媒体を「存在」にするのです。》

●ぼくには、グリーンバーグが《平らさはすべての絵画にとって同じ平らさである》とまで主張しているようには思えないが、しかし、少なくとも一枚の絵画においては、それを統合する背景としての基底平面(地)は「一つ」であると考えていたように思う。それがグリーンバークのもっもと大きな臆見であり、その臆見が多くのアメリカ型フォーマリズム絵画において共有されてしまっているとは思う。それを破るのがラウシェンバーグのいわゆるフラットベット型絵画なのだが、しかし、もっと遡って、マネにおいて既に基底平面は複数に分離していると思われるし(この意味で、マネを「平面性」の絵画の始まりとする見方に同意しかねるのだが)、ルネサンスの絵画が既にそういうものだということを岡﨑乾二郎が示している。また、一つの絵画においてそれを統合する平面(地)が一つだとする考えは「虚の透明性」という概念とも相容れない(「平面性」よりもむしろ「虚の透明性」という概念の方がモダニズムの美術を深く捉えているように思われる)。

なぜ、グリーンバーグにとって基底平面(地)が一つでなければならないのかと言えば、おそらく、地=媒体と、図=内容とを一致させることで、「地」の持つ「深さ」そのものを露わにするという究極の目標のためには、地=基底平面は一つである必要があった、ということだろう。

●で、グリーンバーグが自分で自分の論理の根本にある「基底平面は一つ」という考えを突き破ろうとしている論考として、キュビズムのコラージュについてのテキストが検討される。地=媒体と図=内容とを一致させるということをリテラルに実現しようとすれば絵画は単なる「壁」になる。キュビズムを過激に追求したピカソとブラックの作品はある時期限りなく壁に近づいていく。

《ブラックは1910年の「ヴァイオリンとパレットのある静物」で、キャンバスの上部近くに影を落とす釘を描いている。これは、キャンバスのどこにも描かれていない唯一の影であるようだ。グリーンバーグの解釈によれば、これにより「静物が占めるキュビストの空間の暗めで壊れやすい幻想的(※イリュージョン的・錯覚的)な性質と、表面との間に、ある種の写真的な空間が生じた」(IV 62)。「立体的な深みを排除したCubismは、表面装飾に傾斜する危険を孕んでいたが、この1910年の絵画においては、一つの平面ではなく、二つの分離された平面があり、それらの間に一定の距離があることが問題になっている。」》

《しかし、1912年は決定的な年となった。(…ブラックは)最初のコラージュ作品「フルーツ・ボウル」を制作した。グリーンバーグ的な観点から見れば、これは史上最も重要な芸術作品の1つと思われる。ブラックの行ったことは、十分にシンプルなように聞こえます。偽の木目の壁紙の3本のストリップを、簡略化されたキュビストの静物画とトロンプ・ルイユの文字を炭素(※木炭)で描いた紙に貼り付けただけでした(IV 63)。》

普通の条件下では、文字は常にリテラルなキャンバス表面にあるように見えますが、この場合、貼り付けた木目の壁紙も、よりリテラルな表面に固着するため、錯覚的な奥行きに属しているように見えます。「しかし、トロンプ・ルイユの文字は、平面以外にはあり得ないことが前提条件であるため、平面に戻るように提示される」とグリーンバーグは述べています。そして、ブラックは、絵の中の奥行きの錯覚を最大限に高めるために文字を配置し、貼り付けた木目のストリップに直接描画してシェーディングを施すことで、この複雑な効果を高めました。これにより、「ストリップ、文字、炭描きのライン、そして白い紙は、お互いに深度の異なる場所に移動し始め、画像のあらゆる部分が、現実または想像上のすべての平面を占めるようになるプロセスが生じます」とグリーンバーグは驚嘆しています(IV 63)。

●ここでグリーンバーグは、一つの作品の中に複数の基底平面が織り込まれていることを認め、それを成立させたことで絵画の「壁」化を逃れたブラックを賞賛している。しかしハーマンは、この基底平面(地)が、あくまで空間的(知覚的)であることに不満を持っている。ハーマンにとって「深さ」は空間的(知覚的)深さではなく、現実的対象と感覚的性質との緊張が「仄めかす」、実在する(脱去する)物の深さである必要がある。

《絵画的なコンテンツの個々の要素は、自由に異なる平面に移動できますが、その唯一の目的は、それらが配置された特定の平面的背景を知覚させることです。平面性は依然として主導的な原則であり、ただ1つの寸法の平面性ではなく、複数の寸法の平面性が存在する場合でも同じです。》

●つまり、一方に、多空間的な複数の基底平面(地)への分離と統合(の舞台としての絵画)があり、おそらくこれは「虚の透明性」と言われる概念と重なる。しかしもう一方に、多オブジェクト的な複数の基底平面(地)への分離と統合(の舞台としての絵画)があり、ここで図と地の関係は「図=感覚的性質」「地=現実的対象」となり、これがOOO的な多平面ということになるのか。

グリーンバーグが主張する平面のキャンバスによる絵画の媒体は、表面的な内容に対して行われた類推のように見えます。しかしその解決策には共通の欠点もあります。ハイデガーにとって、存在は単一であり、個々の存在は表面的に複数に見えるだけです。グリーンバーグのキュビスト・コラージュの解釈は、同じ思い込みに捕らわれていることを示しています。彼は背景の平面を増やす巧妙な方法を見つけましたが、表面上の多くの物事とその下にある統合された平面との不幸な対立が残っています。マクルーハンは、人間の存在を再構築する多くの特定のメディアの影響に焦点を合わせる必要があるため、この罠から唯一の脱出口を見つけました