●ChatGPTがあれば外国語の本も読める ! 、となって、目の前の可能性と選択肢がパーっと広がった感じがあるのと同時に、すべての本を読むことはできないので、何を読んで何を読まないかの選択がより一層悩ましいものになった。
たとえば、里見龍樹さんがTwitterで紹介していた『The Echo of Things』が強烈に気になるのだが、人類学関連の本だけでも、『部分的つながり』をもう一度がっつり読み直したいし、『イメージの人類学』も読んておきたいし、となって、いつになったら辿り着けるのか。
また、人類学と哲学が交差する日本語の本として、『アフェクトゥス(情動)』も強烈に気になる。
●『ゆるキャン△』を観ていると、その対極にあるものとして、ケリー・ライカートの『オールド・ジョイ』を思い出す。
最近は、寝る前にお酒を飲みながら『ゆるキャン△』を少しずつ観ている。ぼくは、アニメ版よりも実写版の方がいいと思う(原作は知らない)。キャスティングが良くて、五人の俳優のバランスというか、アンサンブルが素晴らしい。いや、五人に加えて、姉と教師の俳優もとても良い。
いわゆるナチュラリズムの作品ではなく、俳優たちは、見た目も演技も「キャラ」に大幅に寄せてデフォルメしている。その塩梅もとても良い。あくまでキャラに寄せて作り込まれているのだが、しかしそれが生身の人間であることがその背後で強く効いているというか、キャラと生身の出会いによって絶妙な何かが生まれている。
(ああ、この人がサブカルおじさんから絶大な支持を受けている大原優乃なのか、と思いながら観る。)
『ゆるキャン△』の世界には男性が存在しない。父親やキャンプ場の管理人は存在するが、彼らは「男性」ではなく「影」のようなものにすぎない。恋愛も、セックスも、有害な男性性も存在せず、そもそも悪意ある他者が存在しない。そういう世界でのみ生息可能な人物たちだけでできているお話。男性の観客は、決して自分がそこに存在することのできない(自分がそこにいるとその世界を壊してしまう)ユートピアを眺める。
●プロレスラーで、アイドルで、アイドルオタクでもあるアップアップガールズ(プロレス)の渡辺未詩は、「アイドルには女の子だけしかいない世界で生きていてほしい」と言う(「豪の部屋」)。このような傾向はしばしば、女性の主体性を認めずに旧弊なイメージに当て嵌めようとするものだと批判されるが、本当にそうなのだろうか。アイドルの女性ファンだけでなく、アイドル自身も、そして男性ファンでさえも、恋愛もセックスもなく、そもそも「男性」というものが存在しない方が世界はずっと幸福だろうと思っているから、そのようなファンタジーが生まれるのではないか。逆に言えば、そのようなファンタジーは現実が決して「そのようではない」からこそ生まれるのだろうが(男性は存在してしまうし、女性も男性も性的に存在してしまっている)。
(アイドルの恋愛を嫌う男性オタクが本当に望んでいない―否定したい―のは「自分自身が性的に存在してしまっている」ことの方なのではないか。)
(アプガ(プロレス)はキャリアが結構長いし、渡辺未詩はプロレスラーとしての実績はかなりあるみたいだが、「スナックうめ子」のようなアイドルが集まる場所ではずっとおとなしくて目立たない印象だったが、最近、吉田豪が見事にその面白さを引き出していて、またもや吉田豪が逸材を発見したという感じで、そういう意味で吉田豪は本当に優れた批評家だと思う。)