●用事でいっぱいいっぱいで、最近この日記に意味のあることをほとんど書き込んでいない気がする。
●『虚構世界はなぜ必要か?』の刊行イベント《「虚構」と「制作」》(6月8日・RYOZAN PARK巣鴨)について。
https://www.facebook.com/events/600519313800983/
トークの相手をして下さる上妻世海さんとは、以前、「週刊読書人」の、「<別の身体を、新しい「制作」を> 『制作へ 上妻世海初期論考集』(エクリ) を読む」という記事でご一緒しています(2018年11月30日)。上妻さんの著書『制作へ』について、人類学者の奥野克巳さんと三人で鼎談しました。
https://dokushojin.com/article.html?i=4618
古谷 花鳥風月には、お金持ちしかアクセスできないという話は、アートの世界にも共通するように思います。現在のアートは、お金持ちのコレクターとギャラリストが手を結んで、財産を保護していくような仕組みになってしまっている。でも上妻さんは、本書のあとがきに、「一つの〈形〉を作ることは、いつか、どこかの、だれかが別の〈形〉を作るための足場を作ることに似ている。僕は直接誰かと繫がることよりも、なにか〈形〉を媒介にして、部分的に、間接的に繫がる共同体の可能性を、どこかで信じているのだろう」と書いています。たぶん、本来アートに関わるというのは、そういうことなのでしょう。作品として自分を形にし、普通なら接点のないような人にも何かが伝わったとき、そこから小さな共同体が生成されていく可能性。そのことを信じていく必要があるのだろうと。
上妻 消費や参加にとどまって、ある種の制度や組織の中でだけ流通するような、論文はもったいないですよね。人類学の知識が、学者の間だけで流通する論文ならば、それは本当に人類のためになっているのか。制作的視点を持った瞬間に、人類学も、認知科学も、芸術史も、僕らが生き延びていくための一つの重要な素材になるんです。
それはアート作品も同じで、制度の中で、過去に基づいて現在を評価するのではなく、プロトタイプとして未来に繫がるようなもの。僕らの身体に効くか効かないかを前提に、作品を通してみんなが考えるきっかけになったり、自分なりの概念を作るきっかけになるようなもの。各々が制作的になる視点へ、説得しつつ誘惑する、そういう文章を書いたり展示をしていくのが、僕の役割ではないか、と思っているところです。
●おお、レジェンドのインタビュー記事が…。《お姉ちゃんは渡り廊下がうまいんです》《…世渡りがうまい?》。
巷で“レジェンド”と呼ばれるアイドル・SSW、小日向由衣って?─未発表曲を含む独占音源配信開始
https://ototoy.jp/feature/2019052201
ただ、このインタビューでは、レジェンドのすごさが充分に伝わらない感じもある。前にもリンクしたけど、下の動画を観るのがいいのではないか。
まんぼう×ヨネコ×レジェンド3マン ~ #あの夜再び 吉田豪x桐原ユリxヨネコx小日向由衣 20190421 阿佐ヶ谷家劇場
https://www.youtube.com/watch?v=h2NbUqNs5qk
多くの人は、これを観ても、なんて緩い、なんてぐだぐだなイベントなんだと思うだけかもしれないが、時間に余裕のある時に、自分のリズムをできるだけこのぐたぐだ感にあわせるようにして、最後まで通して観てみることに成功したならば、この奇跡の感じを体感できるのではないかと思う。