三鷹のSCOOLで『新しい小説のために』(佐々木敦)刊行記念イベント。1.キュイ「演劇・移人称」、2.いぬのせなか座「私らの距離とオブジェクトを再演する/座談会6」、3.滝沢朋恵ライヴ、4. 上妻世海×佐々木敦、対談。五時間以上ずっと立ち見で疲れた。用事があったので行けないと思っていたのだが、用事が一日前倒しになったので、大雨だし、ふらっと行っても大丈夫かと思ったら大間違いで、すごい盛況で立ち見の人もたくさんいた。佐々木さんの本はまだ読んでません(会場で買いました)。
●1.キュイ「演劇・移人称」。都心から遠くに住んだことで最近は演劇を含めてパフォーミングアーツにtydw
してすっかり疎くて(もともとそんなに詳しくもないけど)、「キュイ」という存在も知らなかったのだけど、まず、最近の演劇の高度な技巧とクオリティの高さに驚いた。特に、俳優の技量がすげえな、と。と、同時に、これは技巧のための技巧になっていて、本質的なことからちょっとずれちゃっているのではないかという疑念が生じた。ぼくはそもそも「移人称」という言葉は使わない方がいいと思っていて、「移人称」という用語で考えてしまったとたんに、あらゆる小説を読み間違うとまで思っているのだけど、まさにその「移人称」という用語によって生じてしまいがちな間違いを正確に示していたという意味でも、とても高度なパフォーマンスだとは思った。
つまり、「わたし」の問題とは、人称の問題(だけ)ではないし、語りの問題(だけ)ではない。人称や語りのねじれは、(様々な複合的な要素の)あくまで結果として出てくるのであって、人称や語りのレベル(だけ)でそれを技巧的にどんなに複雑に交錯させたりいじったりしても、そこから見えてくるのは技巧とパズルの高度さの方へ行ってしまうのではないか、と。
ここにあるのはあくまで「演劇」としての語りの技法の洗練と複雑化であって、たとえば、多重人格と統合失調症意識障害幽体離脱との微妙で難解な違い(と重なり)とか、そういうものが考慮されていないように感じられた。とにかく、様々な「移人称」的「語り」のテクニックの一覧表を、ギュッと凝縮した上で何重にも入れ子にして示していると言う感じ。そのレベルでは充分に楽しめたし、すげえなとも思ったけど、方向性として、これ以上、ここから先に行ってもあまり可能性はないのではないかとも感じてしまった。まあ、「移人称」というお題をもらったからこうなったんですけど…、ということかもしれないけど。
(あと、参考文献に「紫色のクオリア」が挙がっていたけど、量子論的な要素はまったくなかったと思うのだけど……)
●2.いぬのせなか座「私らの距離とオブジェクトを再演する/座談会6」
既にテキスト化された「座談会」(しかも、各々が別々の場所や時間に書き込んだ言葉によって成立しているものらしい)や、既にテキスト化されている「テキストを推敲するプロセス」を、あたかもその場で「それ」が行われているかのように再現し、そして、それとはまた別に、テキストを書いた人ではない別の人が、テキスト内の経験を自分の経験のようにして語ること、ホワイトボードに、人々が話していることと関係のありそうな、なさそうなことが描かれること、あるいはそれとはまた別のパフォーマンスがあり(ゆで卵の殻を剝く、とか、ティッシュを捨てるとか)、それらは、ある意味では同時多発的に重ねられながらも、タイマーのアラームという絶対的基準によって強制的に(オチや結論に至らないまま)終了させられ、分断させられ、放置されたままで、人も出来事も次々に切り替わっていく。
全体の雰囲気としてはすごくゆるく、だらっとしていて、何か重要そうなことが語られているのに結論もなく、その場しのぎで時が流れていくようでありながら、そこで語られること、描かれることの多くは既に語られ、描かれたことの再現であるという意味では行為は強く拘束されているし、何より、タイマーによって進行は厳密に管理されている。
ここでは、かつて自分が書いたテキストを、あたかも、今、ここで発言しているかのように喋ること(テキストが厳密に再現されているということではなく、アドリブもかなりありみたいだけど、少なくとも話の方向性としては既に決まっている感じ)、と、他人の書いたテキストを自分の経験のように語ることがあり、あるいは、既に推敲が行われたテキストの「推敲のプロセス」が、あたかもその場で推敲や議論が行われているかのように再現されていたようだった。
自分が書いたことを、自分が喋るという形で再現し、推敲の議論をそれが終わった後で蒸し返すかのように再現し、しかしそれは、内容を伝えるというより、再現しているということを示す再現であり、さらに、そこで推敲されているテキストの内容を、自分の経験のように再現する別の人もいる。でもそこには形式の問題だけでなく、自然に内容も入ってきていて、入れ子構造というよりも、もっと緩くなだらかに繋がるような妙な形になっている。
語られる内容にかんしては、どんなことを言おうとしているのかという雰囲気は伝わるものの、内容を深く吟味しようとするならば、会場で配られたテキストを、帰ってから改めて参照するしかない。しかしまた、そこで語られている内容と、そこで行われている再現は、まったく関係ないわけではないという感じは現場でも強く匂わされる。すくなくともそこで行われる行為は、帰ってからテキストを参照しようという気持ちを起こさせる。
これが、書かれた戯曲を再現する(演じる)ことと違うのは、そもそも「再現する(パフォーマンスする)」ために書かれたわけではないテキストを再現していることと、それを書いている人が、一人ではなく複数であり、しかも「合作」ですらないこと(座談会)。座談会のフリをした対話の結果を、座談会であるかのように再現する。でも、そうだとしても、既に書かれていること、既に行われたことを再現するという意味では、まあ、別に演劇とかとも本質的には変わらないよね、ということ。明確に違うんだけど、結局は根は一緒なんだよね、ということが示されているようだった。
これらのことが、特にどこに着地するわけでもなく、笑いをとるわけでもなく、特に観客をひきつける「引き」があるわけでもなく、ふわっと起こっては、ふわっと流れ、ふわっと消えていく。どうにも説明しようもなく、どうにも要約しようのない出来事として、このようなことが起っている。ここで行われているのは、「語りの人称操作」というものとは別の、書くこと、語ること、あるいは言葉と行為のなかに「わたし」が巻き込まれたり、「わたし」と発話することで出来事がわたしに巻込まれたり、出来事から「わたし」がひねり出されたりするかのような、そういう過程に近づくための種があるように感じられた。
●3.滝沢朋恵ライヴ。ごめんなさい。ぼくはこの手の女性シンガー(というか、「この手の」という言い方---雑なカテゴリー化---からして既に大変に失礼な言い方なので、ホントに申し訳ないのですが)の魅力に関して、完全に不感症なので、なんとなくふわっと聴いて、少し和んでいた、くらいの感じでした。全然知らない人だったので、事前にちょっとだけ、YouTubeで予習していて、あっ、YouTubeで聴いたあの曲だ、というのはあったのですが、それくらいの感じです。委託曲「小説」は、いい曲だなあと思いました。という言い方も、とってつけたような感じでなんなのですが。
●4. 上妻世海×佐々木敦、対談。上妻さんという人は、ぼくのリアルな知り合いのなかでは例外的にリア充系の人で、交友関係も華麗で広く、なんとなく人の間を上手く渡っていく戦略的な人だと言うイメージもあるかもしれないけど(そして、実際にそうでもあるのだろうとは思うのだけど)、すくなとも、テキストとトークという次元では、むしろ不器用にど真ん中の直球を投げる人だと思う。青山目黒の田中功起展のテキストにしても、もうすこしマイルドな感じで、半分くらい分量で書けば読む人も多いかもしれないのに、がっつりと濃厚な内容で、読むのがけっこう大変なテキストを三万字も書いてしまう。展覧会のステイトメントで三万字って普通あまりないと思うけど(これを最後までちゃんと読んで理解できた人がどれだけいるのか、とか思ってしまう)、上妻さんはガチでそれをする。上妻さんが今、とても目立っている理由は、その空気を読まないガチさにこそあるのではないかと思う。
この対談でも、いきなり佐々木さんの本について語りはじめて、独演会状態になる。しかしそれは、上妻さんが自分の存在を主張するために喋りつづけているのではなく、佐々木さんの本に関する上妻さんの読解が、詳細に語られる。余計な挨拶も大先輩への気遣いもなく(いや、勿論気遣いとか普通にあるとは思うけど)、いきなり本題だけがある。批評家を延々と批評しつづける批評家の姿があった。それは、佐々木敦という人(あるいはオーディエンス)に向けた語りというより、『新しい小説のために』という本について、そこに書かれていること、そこから自分が読み取った意味について、熱く語り続け、語り尽くそうと努めている感じだった。(例えば、哲学の専門家からみれば多少怪しいかもしれない部分も含めて)出し惜しみも、物おじもせずに、自分の考えや理解を抑制せずに、その時の目いっぱいを出していく感じ。
大学の先生とか、インテリ同士の対談とかだと、まず相手の腹の探り合いみたいな社交的雰囲気からはじまり、いろいろと言いわけ的で防御的な前提をつけたりしつつ、徐々に本題に入ってきて、盛り上がり始めたころには時間終了みたいになりがちだったり、逆に、オラオラ系の人は、面白くもなんともない「オレ様哲学」や武勇伝をかましてマウンティングをはじめたりするのだけど(ぼくはホントにそういう人は苦手なんだけど、いけてるアート系の人に多い)、上妻さんの場合は、ある種の野蛮さと、しかし、あくまでも語る対象に寄り添い、(自分ではなく)「対象について語る」ということを外さない上品さ---あるいは素朴さ---とがあり、そして(アカデミックなディシプリンとは違う形での)圧倒的な読解力がある感じがする。その読解力の、アカデミックではない危うさがまた、魅力の一つでもあり、まあ、稀有な存在だなあと改めて思った。
(ただちょっと気になったのは、上妻さんが「実在論/非実在論」という対立を出している時、それは普遍論争的にみれば実在論唯名論の対立、つまり、普遍やイデアこそが実在すると言う意味での実在論と、個物やアトムこそが実在するという唯名論---普遍はただ「名」としてのみある---という原子論的な考えとの対立という意味で言われているように思われて、それはハーマン(の上妻訳)的に言えば上方解体と下方解体の違いとなる。だから、還元主義的な近代科学は基本的に原子論なので非実在論の方に属する。でも、佐々木さんは「実在論/非実在論」を、実在論と観念論というような対立として受けていて---そうなると近代科学は「科学的実在論」という形で実在論の方に入るだろう---そこに用語の混乱があって、話に食い違いが起っていたところがあったかなあ、と。だから、「相関主義批判」という言葉の受け取り方の意味も二人の間で微妙に違っていたように思われた。語の意味は文脈によって真逆にもなるので、こういう混乱は喋っている時にしばしば起り、後になってから気づいたりするのだけど、聞いている人は気付くけど喋っている時に気付くのはかなり難しくて、人前で複雑なことを話すのは本当に難しいことなのだなあと改めて思ったのでした。ディスるのは簡単だけど。)
●佐々木さんの本については、まだ読んでいないので何とも言えないけど、とても面白いイベントだった。佐々木さんにかんしては、(佐々木敦がいなければ日本のマイナーな芸術ジャンルは全滅する、というくらいの重要な批評家に対して、こういう言い方はおこがましいのですが)みているところや関心はとても近いという感じをもっていて(特に、小説にかんしては注目している作家はほぼ重複していると思うのだけど)、しかし、微妙なところで重要な相違があるという感じもあって、その違いがどういうものなのかを考えながら読みたいと思っています。