●戯曲『脱獄計画(仮)』(山本伊等)を読んだ。すごく面白かった。最後の方など、文字を追いながら状況を把握するのが大変で、これが実際に上演されたらどんなすごいことになるのかと思った。
戯曲の一部(と言っても、半分弱くらいある)は無料で公開されている。
例えばかつてのチェルフィッチュでは、俳優AとBとが舞台にいて、最初は俳優Aが人物1として語っている(演じている)と思っていると、いつの間にか俳優Bが人物1として語り始めて、俳優Aがそれを受けている人物2になっている、ということが頻繁に起こった(最近は観ていない)。このとき、異なる俳優=身体間で、同一の人物(役・視点)の移動・共有が起きている(同時に、一つの身体における役の多重化も起きている)。だが『脱獄計画(仮)』では、かつて演じられた(と言われる)『脱獄計画』上の役と、それを演じた俳優の役があって、その二重性(二重化された項)が、役を演じる実在の俳優の間で交換されるので、可変項が三つになって、複雑さがより一層増している。
また、実際にDr.Holiday Laboratoryのメンバーであるロビン・マナバットが、インタビュアーという役割で作中に登場するのだが、この「実在するロビン」の役を演じるのがロビン・マナバット本人ではないことが戯曲に書き込まれている。さらに、この「ロビン」という人物は戯曲の構造上とても重要な役割を果たしている。当初、「ロビン」は石川朝日によって演じられることが指定されているが、彼は途中で「役」から剥落して、戯曲内で単に「生身」と呼ばれる存在になり、それまで「瀬田」という役を担っていた日和下駄にロビン役が移行する。この、役から剥落した単なる身体(生身)は、ベケット的なモチーフを作中に召喚しつつ、(ネタバレになるのであまり詳しく書かないが)「ロビン」という役はさらなる分身的増殖へと発展していく。この展開にはとても興奮させられた。そして当然、実在するロビン・マナバットの存在も、「ロビン」の増殖的多重化に加担することになる。
つまりここには、フィクション内フィクション、フィクション内現実、その外(現実)という3つの層と、その短絡的混同が仕掛けられている。そしてそれだけでなく、フィクション内での役割としても、不在の「演出家」、インタビューを受ける「出演者」たち、そして「インタビュアー」という、3つの層と、その短絡的混同がある。ちなみに、原案小説である『脱獄計画』にも、「謎」としての「総督」、「探偵」としての「ヌヴェール」、「語り手」としての「私」という三つの層があると言える。
部外者・観察者であるはずのインタビュアー(ロビン)が、意図せざる形で結果として主役(ヌヴェール)を演じさせられることになるという展開は、「謎」を暴き、記述する探偵の役割であるはずのヌヴェールの語りそのものが、不信を招く不透明さを持ち、その「不透明さ」それ自体が、総督の謎以上の「謎」として機能している原案小説のあり方とパラレルであると言える(その不透明さは、ヌヴェール自身に由来するものであると同時に、その語りを制御する語り手である「わたし(叔父)」に由来するものでもあり、二重化されている)。さらには、原案小説の「総督」の位置にあると思われる不在の「演出家」は、同時に、実在する(が、舞台には登場しない)演出家・劇作家(山本伊等)と重ねられることで、フィクション内フィクションの「監獄での実験」と、フィクション内現実の「初演の再現」と、現実に行われる「この公演」の三層が(ある意味、シームレスに)重ねられることにもなる。
フィクションと現実との間に短絡的、カテゴリーミステイク的な通路をつくることでフィクションを閉じさせないということ、それ自体は、すでにありふれているとさえ言えると思うが、ここではその並外れた複雑さと、同時に走っているレイヤーの多さこそが重要であり、そこが際立っていると思う。さらにその目的が、フィクション(作品)の複雑化・高度化にあるというより、現実の(現実でもあり、フィクションでもある)、いま、ここ、わたし、に実際に変容を迫ることであるという点が重要だろう。
ここで、フィクションと現実との間にカテゴリーミステイク的な通路を作るということの意味が、現実の空間と時間を用い、そこに実在する人物によってフィクションが立ち上げられる「演劇」というメディアにおいては直に効いてくるのではないかと期待される。いま、ここに実在するからこそ、強く、いま、や、ここ、や、実在を疑い、変容させるための装置となり得るのではないか。
(追記。たとえば、フィクション内フィクション、フィクション内現実、その外=現実という3つの層は、階層構造になっているのではなく、互いに互いを包摂し合うと同時に、互いに互いを食い破り合うという関係になっているのだと思う。ワニに丸呑みされた犬という状態(ワニ ⊃ 犬)と、その犬が内側からワニを食い破って外に出てくるという状態(犬 ⊃ ワニ)とが両立しているというような、論理学的にはあり得ない関係。)