2023/02/17

●Dr.Holiday Laboratoryの「脱獄計画(仮)」を観に行く予定なので、原作の『脱獄計画』を久々に読んだ。面白かった。ビオイ=カサーレスのエッセンスがギュッと詰まったような小説だと改めて思った。

drholidaylab.com

●前に読んだのは15年前だった。

furuyatoshihiro.hatenablog.com

この15年前の日記で、ぼくは《どう読んでも、小説の中頃で主人公が死んでしまうかのように書かれているとしか思えないのだが、にもかかわらず、そのすぐ後に、何事も無かったかの様に、主人公は、いつものように出掛けて行く》と書いている。

この小説は、遠い土地から送られてくる甥からの手紙を、それを受け取った叔父が再構成するという形になっている(さらに「刊行者注」が入ってくるので、もう一つ上位の編集した者がいることも匂わされている)。小説の中盤で唐突に、この語り手である叔父が、「甥の死の責任が自分にあるという者もいるが、そんなことはない」と責任逃れの弁明を始める。読者はそこで主人公が死んでいることを知り、実際、小説の終わりでは、主人公は死んだか、失踪したことになっている。ここに矛盾はないのだが、中盤の唐突な「責任逃れ」の弁明のそのすぐ後の場面で、銃が暴発して主人公が死んだかのように匂わせる場面がくる。

いや、《多くの人間と同じように、自分の生きている現実が劇的であることを知らずに、ヌヴェールは死んだのだ》とはっきり「死んだ」と書かれている。ただこれも、主人公の死の場面が(時系列から外れて)小説の中頃に唐突に挿入されていると考えれば、一応、辻褄が合わないというわけでもない。この小説では、出来事に日付が添えられているか、そうでない場合も「何日後」とかいう形で特定できるようになっているが、確かにこの「死の場面」だけは、宙に浮いているというか、日付の整合性がなんとなくごちゃごちゃっと誤魔化されている感じになっている。だから、はっきり矛盾しているとまでは言い切れないが、だとしても、明らかに不自然でおかしなことをやっていることは確かだ。

一時が万事こんな感じで、書かれている文の全てがどの程度信頼できるのかわからずに不安定なまま読み進むのだが、単に「信用できない語り手」というのではなく、信用できない語り手は一人だけではない。まず、そもそもカステル(監獄の総督)について語るヌヴェールの語り(手紙)が信用できない。そして、ヌヴェールの語りを再構成する「わたし」の語りも信用できない。さらに、小説にはヌヴェールのいとこであり恋敵であるグザヴィエの手紙も引用されるが、こいつの言っていることも信用できない。この三重化された語り手たちが、自分以外の他の語り手がいかに信用できないのかを隙あらば匂わそうとしてくる。三つ巴というか、ウロボロス的に、信用できないが3乗される。そしてこの物語の主題が、あるものを別のものと置き換えることによって「感覚そのものを変化させる(見えているものは見えているままではない、あるいは、五感や空間そのものを書き換える)」というものなのだ。

また、この物語の背景には「一族のゴタゴタ」がある。イレーヌという女性に対するヌヴェールとグザヴィエといういとこ同士の(分身的な)対立関係、ともにこの二人の叔父である「わたし」とピエールとの間の(塩田の権利や一族の主導的立場に関する)分身的・対立関係がある。このような、分身的で対立的な関係は、ビオイ=カサーレスの小説ではお馴染みのものではあるが。

一方で、孤島郡=監獄内で繰り広げられるSF的でミステリ的でもある突飛なお話があって、他方に、それを「語る」側にある背景事情、自己正当化と他者を陥れるたくらみを含んだ緊張関係が生み出す「語りの不信(矛盾・不整合・欠落)」がある。そして、その内容と語りとの関係が、ある意味では乖離しているのだが、別の意味では見事に響き合っている。乖離していて、かつ遠く響き合っているというこの感じがこの小説独自の質感であり、そこが面白い。そして一方で、ミステリとしての整合性はけっこうしっかりしているのだ(日本の現代作家でいえば、麻耶雄嵩に近いのかなあと思う)。