●実家で、バベルの図書館の『塩の像』(L・ルゴーネス)をたらたら読んでいた。最初の短編「イスール」は、カフカを連想させる(ルゴーネスはカフカより九年はやく生まれた)けど、全体としては、ビオイ=カサーレスに近い感じ。ビオイ=カサーレスよりも線が太くて、ぐいぐいいく感じだけど。
「イスール」と「説明し難い現象」、「火の雨」と「塩の像」とが対になっているというか、捻じれて裏返しになっているように思われる。この「捻じれて裏返る」という感じがビオイ=カサーレスを感じさせる。編者がボルヘスだから、そう見えるように意図的に編んだのかもしれないけど。
●「イスール」の話者と(話者が言葉を教えようとする)猿の関係は、私と、一心同体であるにも関わらず、私の問いかけには応えようとしない(内側の外側である)私の影との関係のようであり、それはそのまま、「説明し難い現象」の、主人と主人から分離した影=猿(主人は猿にはまったく似ていなくて、その影は当然主人に似ているのだが、影は同時に「猿」の姿でもある)との関係とパラレルになっている。「イスール」の話者が、あくまで「科学的な方法」で、猿に「言葉」を教えようとする(猿→人間という方向)のに対し、「説明し難い現象」の主人は、「超科学的な方法」で、自分から無言の猿を分離する(人間→猿という方向)。そして無言の猿を無言のままで近くに置く。
「説明し難い現象」は、伝統的な幻想風物語の型式で語られるが、「イスール」にはカフカに直接通じるような、現代的とも言える感触がある。つまり「説明し難い現象」はあくまで物語として、物語のイディオムで語られているが、「イスール」は(擬)科学的な書法で書かれ、話者の猿へのアプローチも科学的なものだ(今日の我々は、実際に猿に言語を習得させようとする科学者たちがいるのを知っている)。勿論それは、科学そのものではないが、話者のアプローチは即物的、具体的、合理的であり、だからこその奇妙さ、だからこその軋み、だからこその手触りが感じられる。ここにあるのは、記述の形式(手続き)の合理性と、しかし記述される行為そのものが必ずしも合理的ではないことの軋轢であって、猿に言葉を教え込もうとする男の「物語」ではない。だから、無言の対象である「猿」に、こちらの欲望を投影して、科学の力によって無理矢理言葉を発するように強いる、そのような近代科学の暴力への批判などという単調なものに留まらない。そのような側面がないとは言えないとしても、それは批判ではなく、そうしてしまうということの感触であろう。さらにそこには、私と、私に必然的につきまとう「私の影」との関係の具体的な表現がある。対象が「猿」であること(猿は何かの比喩ではなく、というか、比喩である以上に「猿」であり、猿でなければならない)、対象に対する具体的なアプローチが書かれていること、それに対する猿の反応が観察されていること、そして、十分に配慮された科学的なアプローチからこぼれ落ちるように、話者(私)の知らないところで猿が喋ったかもしれないという「不十分な証言」があること(真理が、それを合理的に追いかける「私」から零れ落ちてしまう)等々、それらの具体性が、「説明し難い出来事」を包み込む神秘的雰囲気によって生まれるものとはことなる「私の影」を、ことなる「無言」の感触をつくりだす。
合理性がもともとそのうちに持つ非合理性を、ただ合理性への批判として提示するということではなく、合理性そのものを支えている非合理さに突き当たることによって、あるリアリティが生み出されている点が重要なのだと思う。現実を比喩的、あるいは象徴的に表現する「物語」でもなく、現実を合理的、また連続的に記述しようとする「科学」でもなく、ここにはたんに「あるリアル」を創出し得た文の連なり、があるのだと思う。
●私が「私の影」に唐突に出会ってしまう感触が、「火の雨」にも刻まれている。突如降り出した「火の雨」によって街が壊滅し、主人公が、この街で生き残ったのは自分一人だけであろうと思いつつ呆然と廃墟を眺めている時、《港の方で、廃墟のなかをうろつく影を認め》る。
《彼がやってきた時、われわれの間には初対面の違和感などまるでなかった。彼もアーチをよじ登ってきて、私の隣に坐った。彼は船の操舵員で、私と同じく酒蔵のなかにいて助かったのだが、彼の場合は、酒蔵の持ち主をナイフで傷つけた上でのことだった。水がなくなったところで、水を求めて外へ出てきたという。》
ここで唐突にあらわれたもう一人の男は、主人公と並んでライオンたちの迷走と咆哮を見、主人公は彼に最後の食事とワインを与え、その間に主人公が自死するところで小説は終わる。つまりもう一人の男はただ現れただけで、特になにもすることはない。この男がいなくても物語は十分に成り立つようにも思われる。しかしこの男が「あらわれる」ことそのものが重要であるように、この小説を読むと感じられる。あたかも、この男が出現するために、街が災厄によって壊滅しなければならなかったかのようなのだ。そして、この小説でもっともうつくしいイメージと思われるライオンたちの方向を、幸福で孤独な主人公は、この、もう一人の男とともに見るのだった。
●「イスール」では、私が私の影を合理的に追い詰めようとすることに含まれる非合理性が、「説明し難い現象」では、私の内部に私の影が同居することの神秘的な感触が、「火の雨」では、私の前に私の影が唐突に出現することの壊滅的な衝撃が、それぞれ描出されているように感じられる。ではしかし、この「私の影(分身)」とは皆同じものなのであろうか。それは、まったく同じではないが、まったく違うのでもない、のではないか。ことなる表現-媒介によって創出された、親類や兄弟のように似ているが、それぞれ別々の固有性と感触をもつものなのではないかと思う。
●「火の雨」で壊滅してしまう街は、「塩の像」のソドムとつながっており、「火の雨」で、その壊滅の目撃者である裕福で幸福なディレッタントの独身者である主人公は、「塩の像」では、世俗の一切を拒否して隠棲する聖人ソシストラートへと反転する。「火の雨」の淫蕩な街の描写と、「塩の像」の聖者たちのつつましい生活の描写は、どちらも等しく魅力的だ。「火の雨」の主人公が、倒壊し死滅した街のなかで自らの影と出会うように、悪魔にそそのかされた聖人は、破壊された過去の都市の残骸の前で、塩の像として凍結されたロトの妻に出会う。
《いましもソシストラートは、数世紀を後戻りした。思い出した、自分はあの悲劇における中心人物だったのだ。そしてあの女は……、そうだ、あれは前から知っている女だ!》
そして、「火の雨」の主人公と同様に、分身の出現と引きかえであるかのように消滅する。