●頭を洗っていると、自分の頭蓋骨を意識する。両方の手の十本の指の腹で頭をぎゅっきゅっと押すように地肌を洗うと、指に感じるその抵抗から、写真や模型で見た頭蓋骨のイメージが頭に浮かび、それに今、自分は触れているのだと感じ、そして今触れているその骸骨がこの皮膚の下に、つまりほかでもない自分の内部にあるのだと感じ、自分の外にあるイメージが自分の内部にあって、それがまさに「自分」で、それをまるで他人のものみたいに今触れていると思うと、とても奇妙な気持ちになる。
●お盆で実家に帰る。駅に着いて、ふと思い立って、実家へ帰るバス乗り場とは逆側の南口に降りて見る。海までまっすぐつづく広い道がある。ひたすら平らな広がり、広い道路、ゆったりとした空間使い、単調に四角い建物が並ぶ。このざっくりとした、というか、がらんとした「海側」の感じは久しぶりだと思う。六、七年くらい前に、ここから海の方までじっくり時間をかけて散歩したことがあった。その時とは違う方向、線路沿いを歩いてみる。そのあたりを歩くのはたぶん二十年ぶりくらい。確か、ここらへんにちっちゃい古本屋があったはすだという場所に、今もあった。シャッターの下りている店の多いなか、まさか今もあるとは思わなかった。品ぞろえの渋さもかわらなかった(小島信夫『残光』の隣に『暗号解読』という本がさしてあった)。十代の頃、ここで、まだヴァージニア・ウルフという名前を知らなかった時に、『灯台へ』をジャケ買いというか、タイトル買いした。泉鏡花の「陽炎座」が収録されている全集の一冊(ぼくにとってそれは鈴木清純順の映画の「原作」で、初泉鏡花だった)もそこで買った。小さくて、品ぞろえの渋い古本屋は、無知な若者にとって、未知のものに偶然突き当たることの出来る場所なのだった。その時にいたのと同じような感じのおじいさんが店番していたのだが、あれは少なくとも二十五年以上は前のことで、同一人物とは思えないので、あのおじいさんの子供なのかもれない。
●実家で親がテレビで観ていた高校野球をいっしょに少し観た。デジタル放送の画質に驚く。例えば、センター方向にあるカメラから投手と打者を映し出すアングルで、その後ろのバックネットの観客の姿がくっきりと見える。純粋に視覚的に見た場合、という言い方は違うと思うのだが、もし、野球に興味のない人がこの場面を見たならば、おそらく投手や打者よりも、バックネット裏の観客の方を観てしまうのではないか(バックネット裏の像の方が密であざやかだ)というくらい、鮮明に背後が見えてしまう。ネット裏に、黄色い服を着た人が何人もいて、その手前にいてプレーをしている白いユニホームの選手たちよりも、その色の鮮やかさを見てしまう。こんなによく見えてしまうと、その画面から何を見るのかは、それを見る人の興味に任せるしかなく、「これを見ろ」という明確なイメージを示すのが難しい。これは、映画を大きなスクリーンで見るという時の、視覚的な質の高さとは別のことだ。画面が、イメージというよりデータに近づく。それが特別なことではなく、テレビを見る「普通」になるというのは、やっぱりかなりすごい変化ではないか。ニュースを観ても、アナウンサーの来ているスーツの光沢とそのストライプを凝視してしまう。