●昨日だか一昨日だかにBSで『Wの悲劇』を放送していて、すごく複雑な感情を喚起されながらもついつい最後まで観てしまって、最後に「角川春樹事務所 1984」と出ているのを見て、あー84年かー、とため息をついた。もう30年ちかく前、おそらく公開時に観て以来か、あるいは学生の頃にVHSで一度くらいは観たかもしれないけど、だとしても20年以上前ではある。ぼくは67年生まれだから公開時には17歳くらい。関係ないけど『構造と力』が83年で、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』が85年で、あー、あの頃なのか、という感じ。
もし学生の頃に観ていたとしても、その時点では映画がつくられた時と地続きの時間が流れていた感じだと思うけど、今観ると、世界はまったく別物になってしまったという感じが強くある。しかし同時に、いや別にそういうことでもないかという感じもあって、なんというか、すごく遠い感じと近い感じとが均一には混じり合わないで斑になっていて、口をつける度に味も濃度も熱さも違うスープを飲んでるみたいな気持ち悪さで、それが複雑な感情を喚起する。それは、当時と今との距離の感覚で、この作品がつくられた時の空気の中にかつて自分もいたということがあって生まれるもので、はじめからつくられた「当時の空気」を知らない古典作品や外国の作品を観る時はこんな感じにはならない。時間も空間も決して均質に流れたり広がっていたりするわけではないということをすごく感じた。
例えばこの映画の「ドラマ」的要素はもう完全に古臭い。というかおっさん臭さにうんざりする。当時の空気を知っているからこそ(つまり自分もおっさんだからこそ)一層、このおっさん臭さは耐え難いものがある。もしかしたら若い人にはこの映画の登場人物たちのもつ感情がよく理解できないかもしれないと思う。おそらく、感情を理解せずにこの物語を(ライバルや成り上がりの物語として)図式的にだけ受け取る方が面白く観られるのではないかさえ思う。薬師丸ひろ子と世良公則の関係みたいな、この手の「女を描く」的な感情は今の日本からは既に一掃されていて(一部では生き残っているかもしれないけど)、それはとても良いことだと思う。
概して、この映画の風俗描写的な側面は笑えるくらい古臭い。しかしそれは三十年前の映画なので当然で、その部分に関しては、あー、当時はこんなだったなー、と笑って観ていればいいので気楽だ。
そもそもの映画の成り立ちという点でもかなり古い感じがする。当時はまだ日本映画も豊かで、有名な原作と人気俳優の出演があればメジャーな作品としてとりあえずはOKで、あとは制作する側にかなり自由な裁量が与えられている感じで、好きに換骨奪胎できた。ポストモダン的な空気というのか。とはいえ、この自由裁量を作品として本当の意味で生かすことが出来ていたのは相米慎二くらいだったと思う。多くの作品が今観ると恥ずかしい、軽薄なポストモダンでしかないと思う。
この映画もまた、ミステリを原作としながらも原作とはまったく関係ない女優の卵をめぐる話に変わっていて、原作はその女優がかかわる舞台として多少生かされているだけという形になっている。舞台の上での出来事と舞台の外の現実での出来事がシンクロしたりズレたりする多層構造になってはいるのだけど、いかんせん、その舞台の上の話がまったく面白くないので(そしてドラマも古臭いので)、物語としては無理やりひねっている感じがしてしまう。換骨奪胎が中途半端というか、この「無理やりひねっている感じ」に、八十年代っぽい、ある種の懐かしさのようなものを覚えた。
(お金的にも技術的にも豊かで、ぼくにはよく分からないけど、今、実際に映画をつくっている人なら、「こんなカット、今は絶対撮れない」みたいなことも多々あるのではないか。)
だから、出だしからしばらくは、この映画は完全に過去のものになってしまったのだなあと思いながら観ていた。最後まで観る気はなくて、適当なところで切り上げるつもりだった。しかし次第に引き込まれていったのは、この映画の空間的な演出がすごく面白かったから。表面的な様々なことがいちいち古臭く感じられても、空間的な構造やその動かし方の充実や面白さというのは確実にあって、それが人を映画へと引き込むということがあるのだということを改めて認識し直した。例えば、舞台上と、半舞台とも言える楽屋や稽古場、そしてプライベート空間の間にある、シンクロとズレ、あるいはレベルが分かれていると同時に繋がりもあるという感じは、物語の次元ではあまり面白くないのだけど、空間の次元ではすごく面白い。ドラマや人間はすぐ古くなっても、空間はなかなか古くならないものだなあと感じた。
とはいえ、空間的な面白さが他の多くの違和感をどうでもよくしてしまう程に強くぶっちぎっているかというと、それほどでもない。だから、斑なスープを飲んでいるような複雑な感じになる。
三田佳子の演技はさすがに上手い。ちょっとした発声のニュアンスの違いとか、表情とか動き、佇まいのコントロールがすごく細かいし、いちいち決まっていた。これは大変な技術だと思った。ただ、それがリアルかといえばそんなことはなくて、これもやはり古い感じの上手さという気がする。でもそれは、三十年前だから古いのではなくて、三十年前から既に古かった。当時から「この名演技は古い」と感じていた(「スター女優」の役だから意図的にそうしているのかもしれないけど)。逆に言えば、三十年前から既に古かった割には、今でもそれほど「古臭さ」が進行しているわけではなくて、三十年前と同程度に古臭いだけだとも言える。古臭さ自体はあまり古臭くなっていない。この感じはとても不思議だった。普遍的にある一定の古臭さをもったものというのがあるのだろうか。
それに比べると薬師丸ひろ子の演技は不器用で力み過ぎでドタドタしている。しかし、名演技よりも不器用でドタドタした演技の方が映画としてはずっとリアルで面白くなるのだということを大々的に示したのが八十年代の相米慎二による薬師丸ひろ子の演出で、澤井信一郎も基本的にはこの路線を踏襲しているけど、そこにもう少し繊細な感情の表現を付け足そうとしているように思われた。今、こういう演技をする人っていないよなあと思いつつも、でもそれは決して古いという感じではなかった。というか、当時からこういう演技をする人はあまりいないわけで、だからそれは薬師丸ひろ子という俳優の固有性であり、力なのだと思った。
薬師丸ひろ子の姿は、今とはずいぶん違っていた。若い頃の薬師丸ひろ子を知っているつもりでも、そのイメージはどうしたって(見慣れている)現在の薬師丸ひろ子から遡行したものとなり、記憶は現在の像の影響を受けたものとなる。だから実際に映像を見ると、あれっ、薬師丸ひろ子ってもっと丸い感じだと思ったけど、あんまり丸くないなあ、と思ったりする。古い記憶が現前する映像によって訂正される感じ。ただ、普通の時の喋り方はけっこう違うのに、笑い声や声が甲高く上ずるところでは、その声のイメージが現在の薬師丸ひろ子と驚くほどぴったりと重なるので、そこでいきなり過去と現在の距離が混乱する。声に引きずられて視覚的なイメージまで重なって、今の自分がどちらの薬師丸ひろ子のいる時間にいるのか分からなくなる。
「時間」を一番感じさせなかったのは主題歌だった。