●U-NEXTで『コロンバス』(コゴナダ)を観た。特に先鋭的なことをやっているというわけでもなく、すごく普通の話を、ケレンを加えずあくまで正攻法で押し切って撮っているところが逆に大胆という感じの映画だった。いろんなところに「小津に影響を受けた」みたいなことが書いてあるから嫌でも小津っぽいなカットが目につくが(そして、小津をすごく研究しているのがみてとれるが)、一番小津っぽさを感じたのは時間の飛ばし方だったか(特に、女性=ヘイリー・ルー・リチャードソンの母校に二人で忍び込んだ後のモンタージュ=時間の飛躍が『麦秋』そのまんまだった)。
物語としても、小津の「年老いた独身の父が娘を嫁に出そうとする話」のバリエーションだと思った。ただ、そのままだとあまりに古臭い話になるので、娘を「嫁に出す」ではなく「仕事(将来)のために地元を離れさせる」にして、(娘に結婚を促す存在であり、同時に、娘にとっては結婚を躊躇させる原因でもある)笠智衆=父の役を、娘が地元に留まろうとする原因である母(パーカー・ポージー)と、娘が地元を離れることを促す韓国から来た男性(ジョン・チョー)、という二人に分離させている。
とはいえ、それは結果としてそのような構図に収まるということで、まずは何より、ヘイリー・ルー・リチャードソンとジョン・チョーが「いい感じで仲良くなっていく」過程が描かれる映画で、この描写がとても「いい感じ」なのだ(女性と男性とが関係を近づけていく重要な媒介が「タバコ」であるのだが、これは、オーソドックスであるとはいえ、ありがちというか、ちょっと古いのではないかとも感じていたのだが、最後の方にある、図書館で働く同僚が「実はタバコを吸わないんだ」と告白する場面を観て、この最後の一捻りで、まあ、アリかな、と、思った、この同僚=ロリー・カルキンもとてもよい)。
男性と女性の関係は対称的であるように見える。しかし、最初に男性の方の父親との関係の問題が前景化されるが、それはすぐに、彼がコロンバスに滞在する理由として背景化して、実は、女性の方の母親との関係こそがこの映画では重要な問題であることが分かってくる。それに伴って、主題が小津的なもの(娘の家族からの自律→家庭の崩壊)になっていく。男性の父との関係はこの映画では保留されたままで変化しないが、女性と母との関係は、深掘りされ、そして変化する。男性は、父への反発によって父(そして故郷)から離れられたが(しかし「死につつある父」によって再び拘束されている)、女性は、母への愛着によって家庭と故郷に縛られ、自分の将来を諦めようとしている。男性との関係と、二人での建築巡りが、彼女の気持ちを変化させる。
この映画の良さは、女性と男性との関係が、恋愛や性的なものを感じさせる異性愛的な感じからも、パターナリズムを匂わせるような父と娘的な感じからも、等しく、絶妙に距離を取って描かれているというところにあると思う。女性にとって男性は、恋人でも父親でもなく、年上の友人であり、自分の将来を照らす灯りでもある。
この映画にとって「建築」はあくまで背景にあるもの(あるいは「物語」のレベルでの媒介物)であって、コロンバスにある多くのモダニズム建築の空間を、そんなに上手く撮れているわけでもないし、その空間のありようが、映画的な時空のモンタージュに深く影響を与えているということもないと思った。あくまで映画的にオーソドックスに撮られている(小津的なカットやモンタージュをオーソドックスと言っていいか分からないが、建築的であるよりは、より映画的である)。
この映画が、単にシネフィル的オシャレ映画ではなく、「信用できる」と確信したのは、女性が初めて母親のことを話した、タバコを吸いながら自動車の屋根越しに語り合う場面だった。このシーンは本当に素晴らしいと思う。
(コゴナダという監督名が、野田高梧―コーゴ・ノダ―から来ているという話は本当なのか。)