2022/07/10

●『煉獄エロイカ』(吉田喜重)。すっかり、吉田的モンタージュにハマってしまっている。

ただ、お話し的には、というか、脚本の構成の仕方としては、当時(1969年)の日本の前衛映画のメソッドに普通に依っている感じではある。たとえば、人物のアイデンティティや役割の曖昧化、現実の多層化(虚実の区別の曖昧化)、過去と現在(複数の時間)の意図的な混乱と重ね合わせ、一人の俳優が複数の役柄を受け持つこと、関係性のなかで特定の位置をもたない浮遊した(謎の)人物によって物語が発動すること…、など。

まず、主人公(夫)によって夢のなかの「不在の(生まれなかった)子ども」が語られ、次いで「母を求める謎の娘」があらわれる。彼女は、本来子供のいないはずの妻に吸着し、妻に「母」の役割を付与する。それは同時に、(夢のなかの子どもを語っていた)夫に「父」の役を与えることだ。だが、ここで与えられた役割はあくまで「仮」のものである。そこに、「本当の父」を名乗る男が現れる。しかし娘は、この男は父ではないと否定する。さらに、この「父と名乗る男」は、夫が過去に革命運動に従事していた頃の同志(セイ)であるはずだが(同一の俳優が演じている)、本人は別人だとそれを否定する。

ややこしいが、要するに誰もがその役割を固定できず、別の役割への変更へと開かれた仮のアイデンティティしか持っていないという状態が示されている。この映画では、様々な要素が「仮留め」されたものに過ぎず、以降の展開によって書き換ることのできる可能性に開かれている。

ただ、これは基本的にあらゆるフィクションがそうであり、最初にこうだと思い込んでいたある関係が、出来事が展開していくうちに別の形へと変化していくというのが普通の物語のあり方だろう。つまり、最初にあった多義性が、展開に従って一義的に収束していく。しかし、ある種の前衛的な作品では、最初にいわば過剰に多義的な状態があり、その多義性のなかで世界が(現実が)多層化していく。最初にあった過剰な多義性は、展開に従って多少は狭まってはいくが、完全に一義性へとは収束しない。

そのようにして多層化された世界の状態があるからこそ、過去(1952年)と現在(1969年)と未来(1980年)に起きた三つの「アメリカ大使誘拐事件」が重なり、一つの事件の反復のようなものとみなされ、異なる時代の革命戦士たちが交錯するという出来事が可能になる(共時的多層性が、通時的多層性を呼び込む)。彼らの組織には、同じように裏切り者があらわれ、同じように襲撃は失敗し、同じように同志が死んでいく(とはいえ、未来---1980年---の誘拐事件は、もはやリアルではなく、メディアによってリアリティーショーのように仕組まれたものだと解釈でき、反復だとしてもまったく同じものの反復ではない)。

だが、世界がただ限りなく多層的に発散していくわけではない。果てしない分散を抑制し、一定の収束をもたらす機能として「謎」がある。この映画では、「娘の母(父)とは誰なのか?」という謎と、「裏切り者は誰なのか?」という謎が、世界の果てしない拡散を押しとどめ、作品世界に方向づけを行い、多層的世界に(半)継起的展開を可能にする。そしてこの二つの謎は絡み合っている。

娘(アユ)は、組織の裏切り者を追求する査問委員会の様子を、SM的な性愛の場面へと変換して(主人公の妻に向かって)語りなおしており、そこで、母によって父が殺されたさまを語っている。映画のその後の展開では、査問委員会で追及され、殺されるのは主人公(夫)であるが、しかしそれは「仮の父」だ。また、「娘の父だと名乗る男」は、組織の一員である同志セイと同じ俳優によって演じられ、彼(セイ)もまた組織から裏切り者だと疑われていた。しかし彼も、娘から否定される仮の父にすぎない。

もう一人、査問委員会で裏切りを疑われているオンコという女性がいる。おそらく、娘の探している「母」とは彼女のことだろう。では、彼女こそが真の裏切り者なのか。だがオンコは裏切り者ではなく、「裏切り者の女」であった(故に事前に裏切りを知っていた)。娘の「真の母」であるオンコには、身代わりとしての「仮の父」は殺せても、娘の「真の父」(真の裏切り者)を殺すことは出来なかった。また、「仮の母」である主人公の妻も、真の裏切り者を殺す機会を逸する。そして、娘(アユ)が、母(オンコ)を探していたのは、母の男である「父=裏切り者(アトウ)」を自分の手で殺すためだった。

(娘は当初から、仮の母に向かって「父への殺意」を口にしていたが、それが「どの父」へ向けたものかが分からなかった。というか、娘は「仮の父」から暴行されてもいるので、「仮の父」への殺意も含まれていたかもしれない。)

仮の父たち、仮の母たち、仮の裏切り者たちが増殖する多層的世界で、娘はついに「真の父=真の裏切り者」へと至り、父を殺すことに成功する。これはある意味では一義的収束だとも言える(とはいえ、娘=アユは、オンコが暴行されたときの子どもである可能性もあり、完全に一義的に閉じられるわけではない)。

この時、娘の「仮の母」であり、半ば「真の母」だとまで信じ込んでいた主人公の妻は、娘=アユと、母=オンコ、父=アトウという一義的な世界の系列からはじき出され、いわば「世界(世界の中での自分の位置)」を失ってしまう。映画は、アユ、オンコ、アトウという系列の一義的展開を収束させた後もつづき、「仮の母(でしかなかった)」主人公の妻の顔で終わる。つまり、(一義的な)真の母ではありえなかったし、(一義的な)真の裏切り者を殺せもしなかった、一義性からはじき出された多義性の欠片である人物への注目で終わる。

当初、夫婦の間の「生まれなかった子供」の代理(虚構)であるかのように現れた「娘」だが、虚実が逆転して、最後には自分たち夫婦の方が仮(虚構)であったということになるのだが、それはつまり、この映画は実(一義性)の側にあるのではなく、あくまで虚(仮)の側に立った作品なのだ、ということだと思う。