2019-10-27

●引用。メモ。『超人の倫理』(江川隆男)、第三章「超人の認識」より。

●遠近法主義とは

《認識とは解釈が固定化したものです。認識よりも解釈の根源性を主張するのがニーチェの「遠近法主義」(Perspektivismus)です。》

《私たちは、日常的には認識と解釈をどのように区別しているでしょうか。物を認識すると言いますが、文学作品や映画については、それを解釈すると言います。》

《ところが、文学作品も映画も、まず文字の認識や映像の認識が成立した後で、解釈がおこなわれると考えることもできるでしょう。それゆえ、認識の方が解釈より基本的であると一般的に言えるわけです。つまり、ニーチェは、常識とは反対のことを言ったわけです。》

《遠近法主義とは、

(1)多様で特異な個々の遠近法の生成を肯定すること

(2)それら個々の遠近法が含むあらゆる解釈について解釈(あるいは認識)の一義性を刻印することです。》

《遠近法と遠近法主義とを区別して、次のように考えましょう。すなわち、遠近法は解釈の生成そのもののことであり、また、遠近法主義はそれらの生成に存在の性質を、すなわち一義性を刻印することです。》

●〈個別性-一般性〉と、〈特異性-普遍性〉

ドゥルーズは、〈個別性-一般性〉(particularite-generalite)と〈特異性-普遍性〉(singularite-universalite)とを批判的に区別しました。誤解を畏れずに単純化して言えば、個別性、つまり個別的なものとは代替可能なものであり、それゆえ、つねに一般性に還元されるようなもののことです。》

《これはまた、可能性という概念にもつながっています。》

《これに対して、特異性あるいは特異なものとは何でしょうか。それは、代替不可能なものであり、こうした〈個別性-一般性〉に還元不可能な或るもの、すなわち「このもの性」のことです。》

《これは、必然性の概念をともなっています。》

《さて、個別性と特異性との区別は、大抵は各個人の心理的な側面に、つまり彼らの記憶と習慣の多くに依存しています。或るものがその人にとって特異なものとみなされるとき、それは、その人にとってのまさに「このもの」---例えば、この私、この人、この猫、等々---として先ずは現れてくるということです。》

《要するに、その物の〈このもの性〉を支えているのは、各人の心理的な側面によってである、と一般的に考えられるわけです。》

(…)特異性は、個人の趣味の問題であり、個人の心理状態のうちに隠された私秘性のもとにあると言われるわけです。個別性は公共的で社会的なものであるが、特異性はきわめて個人的で私秘的なものである、と。》

(…)特異性あるいは〈このもの性〉は、個人によって実感されたり直感されたりするだけのものである以上、個別性に付着した単なる心理的な偶有性である、とさえ考えられてしまうでしょう。》

《この場合に、個別性から特異性を区別する普遍性の力は、そのほとんどが想像力や意見の力で充たされているわけです。ですから、すべては、実は時代や社会や特定の共同体の幻想に、あるいは家庭内や仲間内の幻想にすぎないかもしれない、と考えられてしまうようなことが時々あるのかもしれません。これは、そうした表象力や意見の過剰さに充たされた精神に応じた疑念であるかもしれません。》

●非心理的な特異性へ

《さて、スピノザの思想から肯定的に取り出してきた「倫理学の実験」とは、一言で言えば、こうした変化の秩序それ自体を変えることです。》

《ここではじめて、先ほど述べた特異性と対になった「普遍性」が何を意味していたのかが理解可能になるでしょう。端的に言えば、概念の一般性を超えた普遍性とは、力、力能、欲望のことです。つまり、この場合の普遍性とは、とりわけ個別性から特異性を区別し選択する力、あるいはそれらの一方から他方への変質と移行を実現する力能だといってよいでしょう。》

(…)普遍性とは、一つの働きであり、動くものなのです。》

《表象像の間の特徴的な差異によって特異なものへと動かされたならば、その出会いの結果に翻弄されるのではなく、次の段階では自分とその特異なものだけに適用しうるような概念を形成すべきなのです。それがその出会いを、単なる心理的水準において理解することを超えて、非心理的な実在性のもとで認識することにつながっているのです。》

(…)普遍性が働くということは、或るものの個別性からその特異性を取り出してくる水準、あるいはそれらを区別する規準そのものを変えるということです。》

《この普遍性は、とくに表象(想像)や意見から共通概念へ、さらに共通概念から直観知へと、その力が発揮される水準を移行するものだということです。》(→昨日の日記での引用部分参照)

《さて、ここで遠近法主義がいかなる思想を提起していたのかがわかります。端的に言うと、それは、〈個別性-一般性〉の認識から〈特異性-普遍性〉の解釈へと精神の水準あるいはパトスの様態を変化させることです。》

脱構築と遠近法主

《ここの或る作品aがあるとします。次に、この作品に対するいくつかの理解の仕方、つまり複数の解釈を想定することができます。》

《或る作品にうちにある真理(=その真の意味)をめぐって生じた解釈をここでは、すべてV解釈と記すことにします。》

《結果的に、そこには一つの支配的な解釈V1を頂点とした、V2V3V4…という、作品の真理に対する接近度を、つまりその真理により近いかあるいはより遠いかを唯一の尺度とした諸解釈の位階秩序が形成されることになります。》

《この場合に、作品aについての真理(あるいはその作品がもつべき真の意味)を探求するような他の諸々の解釈、V2V3V4…のどれかが支配的な解釈V1の座を奪ったとしても、作品とその作品の真理をめぐった解釈との関係であるこの〈a-V〉関係は、けっして解体されないでしょう。》

《というのも、それは単に首のすげ替えにすぎないからです。》

(…)この場合の作品の真理(=真の意味)は、あらゆる解釈が到達すべき唯一の目的であり、まさにそれら解釈にとっての〈目的因〉として作用しています。つまり、真理とは到達すべき目的として設定されたものなのです。》

《さて、問題は、こうした目的因のもとでの私たちの活動がつねに否定を媒介としたものになるという点にあります。というのも、あらゆる解釈の位置づけが一つの目的への接近の活動として考えられる以上、各々の解釈の価値は、まさにこの目的=真理にいかに近いか遠いかによってしか評価されないからです。つまり、どんな解釈の活動も、さらなる近さを目指してその遠さを否定しなければならないからです。》

《したがって、脱構築の問題は、いかにして諸解釈がもつこうした〈Vの言語〉(…)を機能不全にするかということです。》

(…)ニーチェにおける遠近法主義の問題も、同様にこうしたいわゆる「真理への意志」によって結合した〈a-V---つまり〈真理-解釈〉---の関係を解体することにあったのです。》

《こうした意志の使用を、意志の外部にあるもの---この場合に、意志の外にあるのは真理です---を欲するという意味で、意志の「超越的使用」と呼びましょう。》

《一般的によく言われる「権力欲」などは、まさにこの使用の最適の例---「政治」とはかけ離れた「政治家」の愚鈍な意志---を与えてくれるでしょう。》

《それならば、これに対する力能の意志の「内在的使用」とは、どのようなものになるでしょう。あるいは、内在的に使用された力能の意志とは、いかなるものでしょうか。》

《端的に言うと、それは意志のうちで意志しているもののことです。》

《要するに、第一に、意志しているものとは意志の働きそのもののことであり、第二に、この意志の働きとは、内在的に考えられている限り、倫理作用そのもののことだということです。》

《意志の超越的使用とは、真理への意志として成立するような道徳的使用のことです。これに反して、意志の内在的使用とは、本書を通して述べているような、いっさいの道徳的使用を批判しうる、自由意志(=意志の超越的使用)とは何の関係もない倫理作用そのもののことなのです。》

●多様性の確保

(…ニーチェによる)第一の言明(「同一のテクストは無数の解釈を許す」)は、同一のテクストについての複数の解釈の可能性が示されているだけです。したがって、これだけでは、諸々の解釈の間の闘争は、依然として一つの真理や真に意味をめぐる争いであるという可能性が残ったままになります。》

(…)つまりテクストそれ自体といったかたちでの物自体を前提としたような「道徳的遠近法」が一つのパースペクティブとして依然可能であるということです。》

《つまり、ニーチェが「遠近法主義」を主張するためには、(…)第二の言明(「〈正当な〉解釈は存在しない」)が不可欠となります。正当な解釈など存在しないとすれば、遠近法主義における諸解釈あるいは諸遠近法の間の相互の差異は、まさに共通の価値の尺度や評価の土台をもたないということになるでしょう。》

●道徳的な「視点」(カント)

(…)或る視点からの対象の見え方、その物の見える姿は、つねに不完全であり(多くの場合、この不完全性は、「主観的」という言葉で片付けられているものです)、物の認識に関して、もっとも理想的で完全なのは、無視点的に物を認識することだと考えられることになるでしょう(多くの場合、こうした完全性についてまさに「客観的」という言い方が為されてきました)。》

(…)こうした意味での無視点化、つまり理想の認識を目的とした無視点化には、実は二つの典型的な仕方があります。》

(1)或る認識対象に対して、時間的にも空間的にも、考えられうる限りの無数の視点を想定して、それら個々の視点がもちうる特異性を奪い去るかたちで、その対象の客観的な像を確保しようとすること。》

(2)その物のもっとも完全な表象像(典型的な姿)が得られると想定された特権的な視点を、言い換えると、無視点的という意味で何らかの理想を備えた一つの視点を定立しようとすること。》

《例えば、この(1)を現象の世界に、(2)を物自体の世界に対応させて、認識と実践の領域を確定したのが、まさにイマヌエル・カント(一七二四- 一八〇四)であり、したがってここに道徳的態度を見出すことはそれほど困難なことではないでしょう。》

●多義性とは異なる「多様性」

(…)スピノザも、「物をそれ自体で観る」(…)ことを主張しています。しかし、そこには道徳的思考に裏打ちされたような、「物自体」の考え方はまったくありません。(…)むしろニーチェにおける遠近法主義に近いのです。そこには、或る絶対主義があります。》

《或る同一物を異なった視点から見れば、その物の見える姿は、たしかに多様な差異のもとに現れるでしょう。しかし、それでも視点の複数性と視点の多様性とは違います。》

《この限りで、この多様性とは何でしょうか。それは、一つの真理とその正当な解釈をめぐって否定的に生み出された諸々の道徳的遠近法がもつ単なる複数性とはけっして相容れず、またこの複数性をそのまま存在論化したまさに「存在の多義性」に抵抗するものなのです(例えば、神を頂点とした存在者の位階秩序を思い起こしていただきたい。そこでは、完全に存在するのは神だけであって、それ以外の存在者は、程度の差こそあれ、不完全に存在するものと理解されます。ここでは、「神は存在する」と「人間は存在する」あるいは「ネズミは存在する」と言われる場合の「存在する」は、一義的ではなく、多義的に了解されているわけです。これが「存在の多義性」という考え方です)。》

●解釈の「一義性」

《解釈とは、認識対象の側の諸事象や諸実体を単に形容するような、認識主体の側の行為などではありません。解釈こそが、反対にこうした実体や主体の存在や本質を構成してしまうような存在の様態、つまり倫理の働きなのです。》

《解釈の真只中では、何が起きるのか、そこでは、まさに固定化した物の同一性や、私たち人間の硬直化した意識や認識が解体され溶解していくのです。》

《解釈にあるのは、〈真/偽〉でも、〈善/悪〉でも、〈正当/不当〉でもなく、ただここの解釈の〈よいとわるい〉、〈強さと弱さ〉、〈早さと遅さ〉---これらを総称して「強度」と呼びます---があるだけです。個々の解釈がそれぞれに特異な遠近法をもつとすれば、遠近法主義とは、言わばこうした多様な解釈の肯定です。これを解釈の一義性と呼ぶことにしましょう。》

《では、この場合の一義性とは何でしょうか。それは、個々の解釈は各自に異なっているが、しかしそれらの間にけっして優劣関係はないということを意味する言葉です。》

●認識=視点と、解釈=遠近法、テクストの「必然性」

《もし、或るテクストaが一つの解釈Vによってしか、つまり真理を前提としてしか読めないならば、私たちはそもそもこの解釈Vを媒介としてテクストaを単に〈見る-知る〉だけで充分だということになります。そこに〈読む-書く〉という行為はないのではないでしょうか。というのも、読むことは、それ以上に、潜在的ではあるが、たしかに能産的な〈書くこと〉を前提としているからです。》

《結果としての読む行為しかないとき、つまりテクストaのテクスト性---言い換えると、諸解釈がもつ能産性---がまったく失われるとき、このテクストa疲労したものとなるでしょう。》

《解釈とは、あらゆる〈認識の対象〉を〈出来事のテクスト〉にする活動であると言えます。》

(…)認識(=視点)とは、その存在がテクスト性を含まないものの表象のことです。これに反して、解釈(=遠近法)とは、その存在がテクスト性を含むものの表現のことです。》

(…)瓶ビールを飲もうとしたが、栓抜きがないという状況です。そんなとき、人はどうするでしょうか。大抵は、周囲を見回して、栓抜きの代わりになるようなものがないかと探すでしょう。》

《言い換えると、そのとき人は、普段は、瓶ビールの栓を開けて飲むというコンテクスト(文脈)の外にある物を、このコンテクストの内に延長可能かどうかとまさに解釈し始めているわけです。これと同時に、物の側では別のことが生じています。つまり、周囲のすべての物がその遠近法に即してざわめきはじめるのです。》

(…)このことは、けっしてテクストの可能性を回復するという意味ではありません。ここで私が言う「テクスト性」とは、テクストがもっている可能性のことではなく、むしろテクストの必然性のことだからです。》

●すべてはテクスト上の存在

《すべてはテクスト上の存在であり、すべてはその解釈(=生成)である。(…)言い換えると、存在のうちにテクストが内在するのではなく、存在と生成がテクストという内在性のうちにあるということです。》

(…)遠近法主義とは、すべての〈生成-肯定〉を肯定すること、つまり〈肯定の肯定〉のことです。》

《生きることは、絶えざる生成です。身体はそれを知っています。しかし、精神がそれにブレーキを掛けたりします。》

《遠近法主義とは、言わば個人が個人化するための倫理作用です。言い換えると、遠近法主義における遠近法には、その限りで個人化のなかで明らかになる〈よい/わるい〉を内在的な規準とした遠近法しかないと言えるでしょう。それは、個別性と特異性を区別しつづける、精神にうちに見いだされる隠された働きなのです。》

●作品と解釈、能産的自然と所産的自然

(…)作品aは、それだけでその存在が自己完結しているわけではなく、自らが生み出す諸解釈を含めて作品aの存在だということです。作品aの作品としての存在を示すような境界線はむしろ諸解釈のところにあると言うべきであり、このことは、作品aが自らのうちに諸解釈を産出するということを意味しています。》

(…)作品の存在は、諸解釈の存在と別のものではないということです。私たちは、その常識に反して、作品の存在を、それらの解釈を含めたところにまで移動させて理解しなければなりません。なぜならば、この場合の作品aは、まさに能産的だからです。》

《作品aの本性は、解釈が接近すべき言わば「目的原因」(causa finalis)などではありません。そうではなく、作品の本性は、解釈を産出するという「作用原因」(causa efficiens)として理解される必要があります》。

《では、多様な諸解釈を自らのものとして産出する作品、つまり能産性をもったこうした作品を、能産的自然に、つまり「神」に置き換えることができます。つまり、アナロジーを用いて言えば、スピノザの「神」とは、ここで述べた作品aのような、能産性をもった大自然だということです。》

《そして、この大自然から産出されたすべての個体は、作品aの表現的な諸解釈のような、所産的な自然なのです。すべての個体は、そこには各個の人間もすべて含まれますが、精神と身体の二つの仕方でこうした大自然を表現する解釈的な様態だということです。》

●個別的なものと特異的のものとの区別は自明ではない

(…)よい作品とは、特異なもの---このもの---としての解釈を多様に生み出す作品のことであり、つまらない作品とは、個別的なものの一般性しか解釈の要因に与えないような作品のことだ、ということになるでしょう。》

《しかし、こうした二つの領域は自明なものでも、実際に現実的に区別されるものでもありません。私たちの生は、この両者の混合した位相のなかで成立していると言ってよいでしょう。》

《批判的で創造的な並行論の最大の課題は、個別的なものとしての精神と身体をいかにして特異なものとしての精神と身体に移行させるかということではなく、つまり個別性と特異性の差異が問題なのではなく、むしろそれらを区別し選択する力そのものを変えるということです。》