2023/08/01

⚫︎「早稲田文学」の発行停止、および早稲田文学編集室の解散、のお知らせメールが届いた。この事実は既に知ってはいたが、改めて、ああ、終わったんだなと思った。「早稲田文学」に最初に寄稿したのは2010年で、中上健次の初期の短編についてのテキストだった。その後も、大江健三郎についてのテキストを二つ、法条遙という当時新人だったSF作家についてのテキスト、数日前にnoteに公開した『ビリジアン』(柴崎友香)論、そして一昨年は8年ぶりの小説など、(もちろん、その都度での担当編集者との話し合いの上でだが)その時々に書きたいと思っていたことを、自由に、まとまった分量で書かせてもらえたのでとても感謝しています。だからこのことは、ぼくにとって主要な発表の場が一つ失われてしまったということでもある。残念です。

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⚫︎7月30日からのつづき、グレアム・ハーマン『ART AND OBJECTS』の第五章。引用部分の翻訳はChatGPTによる(修正なしのそのまま)。

ランシエールはアーティストに最も影響力のある思想家の一人であると同時に、ラディカルな平等を提唱する政治理論家でもある。ランシエールには、美学と政治という区別を消し去ろうとする。

ランシエールはしばしば政治を「感覚の分配」として描写し、これは政治と美学との密接な関連性を示唆しています。彼は次のようにその内容を定義しています。「私は感覚の分配という用語で、共通の何かの存在を同時に示す自明の感覚知覚の事実のシステムを指します。そしてそれはまた、その中で定義される相互の部分と位置を規定する境界も示します」。この分配は、共有されるものと、特定の人々が排除されるものの両方を割り当てます。ランシエールのお気に入りのテーマは「政治は見られているものを中心に回転する」ということであり、重要な帰結として「誰が見る能力と話す才能を持っているとみなされるか」に関わると言えます。

政治では、以前は認識されていなかった人々が突然その存在を主張する状況にこそ重点がある、とされる。どんな状況にも、そこには「公式に認識されていること」以上のもの(超過)が含まれており、《政治は以前は認識されていなかったものが浮上し、考慮されることを要求するときにのみ起こる》のだ、と。そのようにして「感覚の分配」は変化する。

⚫︎ランシエールは、(既存の)政治的なメッセージを持つ芸術に不満を表明し、《既成の自己満足的なジャンルではなく、むしろ共同体に共通するもの、その可視性と組織の形態に関する美学と政治の問題を提起したいと考えて》いるのだ、と。一読してぼくはラトゥールなどによるアクターネットワーク理論を想起するし、共通するものを感じる。

この共通空間の構築は、芸術だけでなく政治におけるランシエールの見解を支配しており、彼はそれを美しく描写することがよくあります。例えば、詩は「共通の空間を設立する行為そのもので解消してしまう。それはまるで国の祝日の花火大会に似ている」(AD 14)と述べています。また、「高尚な芸術を追求する画家のジェスチャーと、人々を楽しませるための曲芸師の演技を分ける境界はない。純粋な音楽的言語を創造する音楽家と、食品の生産ラインを合理化するエンジニアとの間にも境界はない」(AD 101)とも述べています。したがって、観客や他の世界と切り離された形式的な芸術作品については議論の余地はない》とされる。

美学は現在の政治的状況について具体的な教訓を教えることはできないが、かわりに与えられた知覚世界から他の知覚世界に移行することにより、異なる能力と無能力、異なる寛容と寛容の形態を定義するとされています(ES 75)。 (…)ランシエールは「そのようなブレイクはどこでもいつでも起こる可能性がある。しかし、それを計算することはできない」(ES 75)と述べています。

つまり、ランシエールは《新しい意識の形成と新しい政治的主体性の形成を誘発する経験の構成》としてのみ美学的行為に注目している。故にランシエールは「芸術のための芸術」と「社会的関与を持つ芸術」の間の区別を退け、《もはや芸術の領域と日常生活の領域を区別する境界は存在し》ないことになる。

⚫︎ランシエールにとって「美学的体制」は、それ以前にある「倫理的体制」「代表的体制」にとって変わられるべき平等を表現する体制であり、また「思考」が自分自身に対して異質なものへと常に変化していくような状況を示すものでもある。ランシエールは「詩」に対して否定的で(前の引用でも詩を「国民の祝日の花火大会」に例えている)、代表的体制を「詩的体制」とも呼んで、《芸術を方法と制作の分類内で同定し、それに応じて適切な方法と制作方法、および模倣の評価手段を定義する》と述べ、《この体制はジャンル間のすべての区別を超える「芸術」という概念を知》らない、とする。つまりランシエールは、グリーンバーグ的というか、ラオコーン的なメディウムスペシフィックを否定している。

⚫︎ランシエールは「芸術は不一致の実践」だとする。《人民」とはどの社会でも曖昧な用語であり、既存の法律によって認識される人々、国家として具現化された人々、現状では認識されていない人々、および国家の法律以外の法によって認識を主張する人々を同時に指します。(…)「合意とは、これらの様々な『人々』を単一の人々に還元することを意味します。》《不一致が意味するのは、実際には外観の背後に隠された現実も、与えられたものの提示と解釈の唯一の体制もない分配の組織です。これにより、すべての状況が内側から解体され、異なる知覚と意味の体制に再構成されることが可能になります。

⚫︎以上のように、ランシエールは、グリーンバーグ的な、作品の自律性、そこからくる美的な「質」の特異性、そして各々のメディウムの持つ特異性などを認めていない。《個々の作品と芸術としての特定の領域の自律性は、すべての人間の活動、または少なくとも「感覚の配分」と見なすことができる活動のスープに溶解》してしまう。

⚫︎ランシエールは「存在論」に対して懐疑的であり、その点でもハーマンとは折り合わない。《「現象の下に隠されたものを探求すると、支配の立場が確立される」(PA 46)。しかし、私の意見では、むしろ逆で、より正確に言えば、世界の知識は直接手に入れられると考えることで、それを手に入れる方法を知っている人々の信頼を確立し始めるのです。一方で、ソクラテスの真実に対する無知の告白は、すべての技術専門家を低くしてくれるものです。

⚫︎だかここでハーマンは、ランシエールの演劇(劇場)に関する見解に、強い共感を表明している。ランシエールは「劇場」を共同性の場ではなく、個別の冒険の場であると主張する。そして、「観る」ことは受動ではなく「行動する」ことであるとする(この辺りは、ウォルトンの「フィクション=ごっこ遊び」説も想起される)。

《(…)ランシエールの劇場解釈から得られるものは、「フォーマリスト」的な試みであり、劇場を共同政治生活への帰着から拒否しようとするものです。彼が正しく述べているように、「劇場自体がコミュニティの場所である」という考えを検討する時が来たのです(ES 16)。この最近の哲学的な信仰に代わり、ランシエールは劇場を各々の観客に「独自の個別の冒険」の生産と見なしています(ES 17)。ブルジョワ的な個人主義を前進させると心配したフリードに対して、ランシエールは非共同の劇場から平等な結果を描きます。「知性の平等の共有の力が個々の人々を結びつけ、彼らを知的な冒険を交換させると同時に、お互いを分離し続けます」(ES 17)。

解放は、観ることと行動することの間の対立を挑戦するときに始まります。観ることも行為であり、位置の配分を確認または変える行為です。観客も、生徒や学者と同じように行動します」(ES 13)

オブジェクト指向の比喩の説明も、芸術の「受動的」な読者や観客を欠落したオブジェクトの活発なパフォーマーとして扱います。芸術家は単に自らの作品の最もよく知られた観客であり、同様に、評論家は分析する芸術家より劣っているとは見なすべきではありません。