●久しぶりに『AKIRA』(大友克洋)を観ていた。今観てもすごくかっこいい。さすがに、物語的には今これをみせられても驚かないという感じだし、あと、キャラクターの作画がちょっと不安定で、鉄雄が時々「ドラゴン・ボール」みたいに見えたりするけど、演出やイメージの構築が無茶苦茶すごい。88年に既にこれがあったんだなあ、と。
それで、80年代の主な劇場版アニメ作品を思い浮かべてみた。79年に「カリオストロの城」があり、84年に「ビューティフル・ドリーマー」と「ナウシカ」、86年に「ラピュタ」、87年に「オネアミスの翼」、88年に「逆襲のシャア」と「AKIRA」、89年に「パトレイバー劇場版」。こう並べてみても、八十年代の終わりに、大友克洋押井守がアニメの世界をそれ以前には考えられないところまで拡張したことが分かる。
だがここで、88年の「AKIRA」と89年の「パトレイバー」とで微妙な違いがある。「AKIRA」の主人公は金田と鉄雄だ。そして、敵というのとは違うけど、相手側として「大佐」がいる。主人公は少年だけど、「AKIRA」くらい構えが大きい物語になると、公的な人物(大人)がそれなりの役割を担う必要が出てくる。大佐は軍人であり、体制側の人間だが、体制にべったりではなく、自分なりの思想、倫理観や使命感があり、それに基づいて行動している。そういう深みのある人物として描かれ、実際に、後に体制と相反することになる。少なくとも映画版「AKIRA」においては、主人公の金田よりも、大佐の方がずっと重要で魅力的な人物にみえる。しかし形式的には、主人公は少年の側でなければならないのだ。
だが、劇場版「パトレイバー」になると、主人公が警察の側に移行する。「AKIRA」における大佐の位置にいるといえる、後藤隊長や南雲隊長こそが中心になる。これはかなり大きな変化ではないか。
ウルトラマン」だって「宇宙戦艦ヤマト」だって、軍人側が主役ではないか、とも言えるが、科学特捜隊の隊長や沖田艦長と、大佐や後藤隊長とは大きく異なる。大佐や後藤は、現場の指揮官であると同時に上からの命令に従わねばならない板挟みの中間管理職であるという性格が強く描かれる。しかし、そこで現れるのは中間管理職の悲哀みたいなものではなく、上と下とを結ぶ媒介的な地位であることによって、体制の中で独自の動き方(策略、駆け引き、政治)をすることが可能になる。体制の中枢でもなく、反体制(あるいは無力な新参者)でもない、中間的、媒介的な位置にいることが、積極的にとらえられ、そこに「行動し得る可能性の地平」が開かれ、それが物語となる。
古い物語のパターンで、若くて才能はあるが経験のない若者と、経験や実績はあるが年老いてしまった者とが、対立を含みつつ協力関係(師弟関係)をもつというものがあるが、ここで彼らは、老師でも若者でもなく、体制でも反体制でもなく、保守でもリベラルでもなく、父でも息子でもない。セカイ系のような物語が流行る一方で、九十年代のアニメにはこのような中間的な位置にいる人物によって構えの大きな社会的な物語が可能となっていた。体制内という制約のなかで、自らの媒介的位置を利用して、独自の動き方をすることによって正義を模索する人物が中心となる、ほぼはじめてのアニメが劇場版「パトレイバー」だと言える。
このことが、九十年代のアニメ(特に「パトレイバー」と「攻殻」)の世界を広げ、深めることに大きく貢献しているように思う。
彼らは体制側でも反体制側でもないと書いたが、彼らの能動力が体制内にいることによって生じていることは否定できない。体制へパラサイトすることで、体制から距離を取り得る。彼らは、体制内の無能や硬直、腐敗などを正すことはできても、体制そのものを大きく変化させることはできない。彼らは、自身の名を捨て、命を捨ててまで、社会の現状を維持しようとする。彼らは決して、自分たちが維持しようとしている「現状」を愛してなどいない(むしろ嫌っている)にもかかわらず。
(彼らは、「愛するものを守る」とかいう通俗的---利己的---な動機に支えられているのではなく、大他者のささやきのような使命感に従って行動しているのではないか。「そうしろとささやくのよ、私のゴーストが」ゴーストとは大他者のことか。)
たぶん、それは九十年代にはとてもリアルだった。でも、今はまたそこから、ずいぶんモードがかわってしまったと思う。