●ひたすら『ガンダムUC』を観て過ごす一日。
うーん、これはやはりニュータイプがあるからこそ成り立つ話なのかなあ、と。ニュータイプが信じられるならバナージに賭けるということなのだけど、信じられないならばフル・フロンタルの方がマシということになって、そしてフル・フロンタルは後藤さん(パトレイバー)やアラマキ(攻殻機動隊)と同様に、(大きくみれば)体制内アウトローの一種だ。つまり、最悪の政府でも無政府状態よりはずっとマシということで秩序を守ろうとする人だ。革命家であるシャアは、地球に隕石を落として多くの人が死ぬという犠牲を払ってまでも「愚民」どもに「覚醒」を促そうとする(これは旧来の革命家のイメージで、現在ではテロリストだ)。体制内アウトローは、心のなかは革命家だが、実践的には体制側---隕石落としは許されないし、人は決して覚醒しない以上、そうするしかない---というシニカルな人で、フル・フロンタルはまさに魂=心の抜けたシャアと言える。フル・フロンタルの構想(サイド共栄圏)の場合は、地球連邦政府とスペースノイドとの主従関係の反転はあるものの、これは革命というより与野党逆転に過ぎず、世界の基本的な枠組み(対立構造)は変わらないことになるから---しかし、虐げられた多くのスペースノイドにとってそれは、生きるための「可能性という神」ではあり得る---大きくみれば体制内アウトローと言える。
(とはいえ、フル・フロンタルは革命家の魂を既に失っているのでシニシズムはなく、一種の精密な政治機械であり、純粋な「器」として存在するというところが、他の体制内アウトローとは異なる面白いところだろう。愚民を覚醒させるのではなく、人々の願いの透明な器になる、ということで、シャアの反転とも言える。これは、清水高志さんのセール本で「ノワーズな美女」と対照的な概念として出てきた《一個の「括り」としての表象になりきった人間》である「公的人間」というのに近いと思う。でも『ガンダムUC』のフル・フロンタルは、友/敵的な二項対立そのものを書き換える存在ではないから、準-客体として機能はしていない。)
(フル・フロンタルという「器」は、それが空(「くう」ではなく「から」)であるにもかかわらず、空であるからこそ、そこに「可能性という神」が宿っているかのように見せることができる何かであるとすれば、それは対象aであって、公的人間ではないのか。対象aには構造を書き換える力はないのだとすれば、構造を書き換える力をもつ準-客体はやはりバナージ---ガンダム---だということになるのか。)
(地球連邦政府から見限られたネェル・アーマガと、ネオ・ジオンから距離を置いたガランシェールとがガンダムを媒介にしてくっついた時に、二項対立の書き換えのための装置が起動しかけるのだが、それもまた、地球連邦政府やフル・フロンタルの介入によって上手くいかなくなる。既にある権力---二項対立---の抑圧によって、あたらしい可能性がことごとく潰されるという光景を、あまりに見慣れてしまっていることが、素直にバナージに希望をもつことを難しくしているのか。そして、希望を持てないというそのことこそが、希望を潰してしまっているという可能性もある。)
●ここで現実的な問題として浮上するのが、テクノロジーはニュータイプの代替物でありえるのか、ということだろう。あるいは、テクノロジーの助けによってニュータイプは可能となるのか。人は変わらないままで、社会が変わることが出来るのか。それが『ガッチャマンクラウズ』の問いなのだと思う。