2024-11-09

⚫︎『ラカン 主体の精神分析的理論』(立木康介)、序章より、引用、メモ。分析の目的=集結はどのように訪れるのか。

まず、精神分析の論理的概要。シニフィアン、〈父の名〉、大文字の他者と「主体」、現実界。これはかなりわかりやすい。

シニフィアンとは、言語を構成する物質的=質量的な要素の、a≠bのように互いに区別できる最小単位(最終的には表音文字によって担保される「音」)、および、それらが―象徴界独自の法則によって―組み合わされたもの(意味を持ちうる単語やそれより上位のレベルの要素)を指す。ただし、ソシュールにおいてシニフィアンと対をなす独立の次元を構成していた「シニフィエ」を、ラカンシニフィアンにたいして二次的なものと位置付ける。ラカンにとって、シニフィアンは自律的な構造(および法)を持つが、シニフィエはそのシニフィアンの連結の「効果」にすぎないのである。このラカン独自の視点は、まさにフロイトによってもたらされた。ラカンは、無意識を解読するフロイトの技法が、患者(主体)の話をまさにシニフィエではなくシニフィアンのレベルで読むことのうちに存すするのを見てとる。》

フロイトの「エディプスコンプレックス」は、主体の欲望が、そこに根源的に刻まれた一つの禁止によって方向づけられることを意味する。ラカンは、象徴界の「法」を指し示す特権的なシニティアンを〈父の名〉と呼び、「母の欲望」の謎をめぐる子供の探究が、母の語らいのなかでこの〈父の名〉に出会うという構造的契機のうちに、エディプスコンプレックスを位置付け直した。このことは、まず、〈父の名〉の排除が精神病の条件をなすという画期的なテーゼへと。ラカンを導いていく。だが、シニフィアンの領域の内部に、その「法」を体現する特別なシニフィアンを想定することは、この領域が平坦で均質な空間ではなく、ある種の凹凸をはらんだ不均質な場であると考えることを意味する。》

《もともと象徴界の主体のメッセージの宛先となる「もうひとりの主体」としてラカンが導入した〈他者〉(大文字の他者、l`Autre)の概念は、やがて「象徴界」の別名となる。〈他者〉とは、何よりも、主体を支配する「主」としての言語の場であり、主体の「話」の真理の保証者である。だが、主体が〈他者〉とのあいだに築く関係はそれだけではない。本書の最も重要な論点のひとつを先取りしていえば、主体としての自らの真理を探究する道のり(=精神分析)において、主体は〈他者〉が自分自身の真理を保証できないという逆説的な契機に遭遇し、この「〈他者〉のなかの欠如」を埋め合わせることを求められる。しかし、それはまた、もともと〈他者〉の差し出しすシニフィアンによって決定された主体が、その〈他者〉による決定に同意するかどうかを自己決定する契機である。こうした自己決定の必然性が残されている限りにおいて、精神分析の「主体」はいわゆる構造主義の想定する主体とは異なる。それはむしろ、構造による決定を受け入れるかどうかを自らの責任において決定する主体なのである。》

《(…)「不可能なるもの」としての現実界とは―スラヴォイ・ジジェクのナイーブな読者たちが考えがちなように―私たちが日常的に依存する諸システムの枠組みを突破して、そのシステムを壊乱させる何か破局的なもの、圧倒的なものを指すわけではない。いや、それ「だけ」を指すのではない。「現実界」とは、何よりも、私たちの住む世界にひとつの象徴界、すなわちシニフィアンのシステムを導入したことで、そのシステムの内部に奇妙にも、しかし抗いがたく生じてしまう、諸々の論理的な不可能のことだ。数学はこの手の不可能にこと欠かない。図形の世界に数という象徴的秩序を導入したとたんに、正方形の対角線や円周率は、分数で表せないことが判明する。それを√2と書いたり、πと書いたりしたところで、分数に書き表せないことに変わりはない。この「割り切れなさ」こそが、数学における現実界の顕れ方の典型である。(…)この世界にシニフィアンの秩序が確立されたことで、私たちの存在の「原因」や欲望の「原因」は、逆説的にも―つまり、「原因」という概念そのものがシニフィアンによって与えられるにもかかわらず―この秩序を構成する要素によって完全に記述することができなくなる。》

追記。鏡像段階想像界について。

《生物学的にみて未熟な状態(神経系統の発達が整わない状態)で誕生し、身体諸器官の有機的統一もままならない生後六カ月から一八カ月の乳児は、鏡に映る自身の像を、これら無統一な身体感覚を流し込む「容れ物」とみなし、この像と同一化することで、先取り的に「私(自我)」を確立するという理論だ。いかに自己の身体の反射像といえども、鏡像は一個の他者である以上、それぞれの「私」の根底に他者が棲まうこと、従って、像のレベルではつねに自己と他者が互いに入れ替わり、相手を侵食し合う関係にあることを含意するこの鏡像段階論は、その後、ラカンの教えの中心が象徴界、さらに現実界に移ったのちも、「想像界」の理論として不動の位置を保ち続けるだろう。》

《私は、私に生の幻影を与えてくれる私の像=自我を愛さずにはいられないし、自我に似ていたり、自我を愛してくれたりする他者をも愛するだろう。だが、いったんそれが破綻すると、鏡像的な二者関係は烈しい憎しみに転化しかねない。というのも、鏡像は他者との争奪戦の対象になるからだ。鏡像が本来的に他者のイマージュ(自己の身体の外部に存するという意味で)である以上、それは常に剥ぎ取られる危険を孕む。胸像を剥ぎ取れらた主体は、元の「寸断された身体」(…)の現実へ、それゆえ死にも等しい混沌の闇へと、再び突き落とされるかもしれない。》

そして、対象aと、分析の目的=終結

《一九六二~六三年のセミネールX『不安』でいったん完成すると見てよいこの概念は、鏡像的関係における他者の身体像(「シェーマL」と呼ばれる一九五五年の図ですでに「a」と表記されているところの)と、フロイトの「部分対象」(口唇や肛門、さらには眼や耳といった身体の「孔」に源泉をもつ各「欲動」は、自らに対応する固有の対象、つまり乳房、糞便、視覚像、音声による満足を、そしてそれのみを、それぞれに追求し続ける)という二つの、理論的位相をいささか異にする期限を有する(…)。》

《(…)サッカーというスポーツは、ルールや戦術という象徴界の位相、それを肉体で実行するという想像界の位相をもち、両者が機能しているあいだは、ボールの動きに集約される現実界(「実際に動くもの」の意味での)は、大きな波風を立てない。いいかえれば、象徴的なものや想像的なものをはみ出したり、越え出たりして、突出することはない。だが、いったん密集ができ、そのなかでボールが回されるようになると、ボールには予想外の動き、つまり象徴的にも想像的にもコントロールされない動きが生まれる。そういう瞬間には、ボールが思いがけないところに飛び出し、たまたまそこにいた選手の一蹴りでゴールが決まるという幸運も起きうる。いずれにせよ、ボールにイレギュラーな動きが生じ、それまでは象徴界想像界のルールや制約に従っていたボールが、そのものとして存在感を高めるとき、そしてそのときにこそ、「不可能なるもの」(主体の思いどおりにならないもの)としての現実界が、まさにこのボールの動きを通じて、姿を現すのである(…)。》

対象aをイメージするには、以上の記述の「ボール」をすべて「対象」に置き換えるだけでよい。象徴界との関係でいえば、正確には、そのなかの欠如(〈他者〉のなかの欠如)こそが、現実界の代理としての対象aの到来する場になる、という補足が必要かもしれない。しかし肝腎なのは、象徴界の機能がいわば宙吊りになる地点で存在感を高めるのが対象aである、ということだ。》

精神分析のセッションでは、それは夢や幼児期記憶のなかで不思議と浮き立った対象、仮に何らかのシニフィアンで名指されたとしても、象徴界想像界の連関にけっして容易に回収されない対象として、告げられることが多い(対象aの「座」は無意識の幻想のうちにあるので、球技のボールのように主体の目の届くところにたえず現前するというより、一般にはむしろ不意に、あるいは偶然にみえる仕方で、姿を現す)。それは紛れもなく、主体の現実界がすぐそこに迫っていること(あるいは、迫っていたこと)のサインであり、ラカン自身が繰り返したフレーズを借りれば、「現実界の一端(nu bout du reel)」に触れる(これが精神分析における「得点」である)チャンスだといってよい。》

《同時に、後述するとおり、このような対象が―たとえば夢のなかに―現前するとき、主体はじつは対象の側にいるのだが、この対象が決定的に失われたり、本姓を変えたりして、主体から切り離される、つまり、主体に対峙するものとして幻想からこぼれ落ちる瞬間こそが、ラカンのいう「幻想の横断」、すなわち分析の終結を画する。対象aとは、主体が症状の苦痛に甘んじてでもしがみついて放そうとしない「享楽モード」のキーでもある。この享楽モードを固定する「幻想」のシナリオからそれが転落するとき、主体は当の享楽にもはや振り回されなくなる、つまり人生を左右されなくなるだろう。》